愛のあるセックス

 そして愛のないセックス
 あるいはエロのない勃起
 問題はエロにおけるノエマノエシスであってエネマではない、絶対に、それは。
 ノエマとはフッサールが主著『純粋現象学現象学的哲学のための諸構想(イデーン)』の第一巻において導入した術語だが、ノエマにはさまざまな規定を与えられ、これらの規定をどのように解釈するかをめぐって、まったく異なる複数の見解が提出され、論争を巻き起こした(ノエマ論争)。エロ・コンテキストにおけるノエマ解釈のポイントは、

  1. ノエマは意味概念の拡張である」というフッサールの発言をどう解するか
  2. 「知覚された対象そのもの」とも言い換えられる知覚ノエマをどのように説明するか

の二点である。
 エロは意味概念の拡張であるということは、ユクスキュル「生物から見た世界」でもあきらかなように、エロそれ自体は種によって異なるものであり、そこには種の超越的なエロ・コードによる意味解釈がアプリオリに含まれていることは疑えない。
 では、「知覚された対象そのもの」なのかというところが問題である。つまり、いま見ているものそれがエロなのか? 対象がエロなのか。それはエロいか? 走れエロ以下略。