今日の新聞各紙社説は…

 朝日新聞の爆走がGJです。
 教科書問題はそれだけ取り上げてぐだぐだいうんじゃねーとか思うがなんかこんな問題どうでもいいよ。
 産経の石井式漢字教育にはorzです。石井勲の初期論文を実は私は読んでいる。公文に取り入れたあたりでなんだかなと思ったものだ。なんか振り返って考えたくもない。

産経社説 】「式」とは 型に則することが大切だ

 「式」は「弋」と「工」からできている。「石井式漢字教育」で著名な石井勲博士によると、「弋」とは「土地の境界線をはっきりさせるためにたてた“木の枝”の象形」であり、「工」は「長さの単位を表わした指事字」で「定規の象形字」ともみられるという。「式」は工作するときの目印という意味から、手本、ひな型の意に語義を広げたわけだ。

 をいをい、石井式漢字教育のこと知ってて書いているのか。

朝日社説 中国の反日 ガスが充満している

 日本に対して、アジアでの主導権を争うライバル意識もあるのだろう。阿南惟茂・駐中国大使は「愛国主義教育の結果として、若者の中に反日の感情をもたらしているとも見受けられる」と、中国外務省に指摘した。
 だが、根底にあるのは、戦後60年を経てなお和解できないでいる両国間の根深い相互不信なのではないか。小泉首相の4回に及ぶ靖国神社参拝がそれを増幅してきた。何かあればすぐに火がつくガスが充満しているかのようだ。

 その手がまだ通じる思っている朝日。

ココログが長時間メンテ

 今日は外出が長いのでブログアップは夕方か。
 ネタの関連は⇒連載第8回及び第9回の記事が再度公開になるまでの経緯について - nikkeibp.jp - 立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
 というわけで、蛭子先生、もとい、立花先生のエッセイが微妙に復活。

キルギス革命、米機関が暗躍=邦人拉致事件で身代金を否定−アカエフ氏

【モスクワ6日時事】3月24日のキルギス民衆革命で政権を追われ、ロシアに滞在中のアカエフ前大統領は6日、時事通信との電話インタビューに応じ、「政変では米国の機関が重要な役割を果たした。半年前から米国の主導で『チューリップ革命』が周到に準備されていた」と述べ、米国の暗躍を強く非難した。

 アカエフの言い分は言い分として聞いておこう。

なんというか…

 はてなを含めてブログとのつき合いも長い。下手すると二年にもなるかと思う。
 過去の書いたものを読みながら、意見が変わったとまでの部分はないが、たとえば、二年近くなると自分のほうは二年歳を取るので、なんというか、二歳若い人の言い方だなと思うことがある。
 例えば、昭和の日。沖縄分断の次の日の誕生日を昭和天皇スティグマとして思っていただろうと思うし、ま、そんなことをブログにも書いた。今、読み返してみると、そんなこと言うまでもないなという感じがする。
 なんというか、日本人の一番、日本人らしいコアの部分って、語っても詮無き、という感じがする。ある種の無気力でもあるが、なんというか、聞き手のないところに大声あげていたなという感じもする。
 逆にいうと、自分が思うより、はるかにブログだの日記だのが読まれ、そして読まれたことで自分が影響を受けたのだと思う。
 無気力といえば、例えば、現在の郵政問題だが、まるで議論をする気もしない。たぶん、それは国民の大半がそうだろうし、自分もそうだ。それでいいのかというと、わかららない。
 自分が愚かになっていくとも思うし、いやかつても愚かで変わらないとも思う。
 自分がより大衆の思想的な意味に接近しているような気もするが、そうでもないとも思う。
 ま、うまく言えない。
 ブログを書くことで年老いた部分はある。
 そういえば、なんというか、論壇というか、メジャーな評論っていうのか、そういうのもあまり関心を持たなくなった。なんか、そのメディアはどうでもいいやっていう感じだ。
 これもうまく言えないのだが、自分の書いたものなりがうまく読まれない感もどうでもいいような気がする。書き手のまずさは当然ある。でも、通じなければそれはそれというか。
 ニヒリズムというのでもないのだが。

そういえば…

 よく知らないのだが、浅田彰本人がはてなにコメントしているというような話を聞いた。極東ブログのほうに以前その名前でコメントがあり、本人なのかもしれないとも思った。(福田和也が言っていたが、浅田彰は公正だ、と。それはそうだなと思うので、匿名コメントなどはしないだろうと思う。)
 浅田彰については、ブログを書き始めたころは、ひでーこと書いてしまったな。ご本人なら、むっとされるだろうなと思う。あー、それは、ごめんちゃ。と思う。
 現在では、あまり、関心ないというのでもないが、あまり自分とは関係ない人のようにも思う、というか、浅田彰(という名前の言論)にそれほど関心はない。悪い意味ではなく、ただ、関心が薄れてきているような気がする。
 彼と限らない。思想というのにあまり関心がもてなくなってきている。
 というか、ある状況下における政治的な発言の意味というのが、よくわからないという気がする。
 うまく言えないのだが、自分はあまり文化系的な人間ではないのかとぼんやり思う。自分は理科系だとかいいたいわけではない。なんというか、テクニカルな情報がきちんと整理されれば、そこから導出される意見というか政治見解は限定された集合(sets)以外ではない。とすると、まず、その条件の技術面の正しさをどう学ぶか。そこから得られるSetのバリエーションを規定する関数みたいなものはなにか、その有効性は…ということで尽きているような気がする。
 ま、その意味で、陰謀論的な意味でなく、というか、隠された真実なんかが知りたいわけではなく、明確にオバートな情報を整理してきちんと物事を考え、それが限界を持っているならダメはダメかぁ、というところできちんと納得して終わりに思える。

ブログとかで…

 右派左派…なんでもいいけど、ある問題の重要性を自明として声高に語る人がいる。自分がそうでないというほど呑気でもないのだが、最近、それって、ただの修辞だよねと思うことが多い。
 人権擁護法案? 竹島問題? ホリエモン騒動? ある自明性の前提、重要性の前提だけが問われるように語られても、それは頷くか聞かないかくらいなもので、考えるっていうこととはほどとおい。
 とま、自分をメタにして逃げるわけでもないのだが、ある与件のありかたのほうが気になる。つまり、そうした問題を修辞的に成立させる構造が同一の構造なら、その構造が問題だ。ま、メタ的な言い方だが。
 で、実の問題というのは下のエントリにも書いたけど、現実は現実としてそれほどどうありかたが選択できるものでもない。竹島問題にしても、解決しようがない。普通の国家なら最終的に戦争ということになる。しかし、日本はその選択をしないと決めた。中韓の一部は日本の軍国主義の復活がとかいうけど、このことで日本がある程度リアクションしていること自体、戦争の選択はしませんよ、戦前の日本じゃないですよという自明なことなのだが、通じない。しかたない。

ダルフール問題…

 あちらのWikiをご覧になるとそれがほそぼそと生きていることがわかると思う。なにもその火を消すまいとしているわけでもないが、私はこの問題に私ができる範囲で関わると決めた。その範囲はどうよというのはあるが、そこから逃げないよと決めた。
 そして約一年が過ぎようとしている。
 日本でもこの問題は知られるようになったし、メディアでも取り上げられるようになった。
 が、私が知らないだけかもしれないけど、日本のNPOなどでこれを課題しているところを知らない。弱音でいうのだが、支援グループがいてインフォを継続的に出しているなら、あのWikiの意味などないだろう。
 なぜ、30万人にも無垢な人が、かなりおそらくスーダン政府という国家によって虐殺されて平然としていられるのだろうか。と、もちろん、そういう言い方で問いだしたとき、悪しき修辞とはなるのだろう。
 うまく言えないが、そうは問えない。

婦人公論 the 90th anniversary blog

 なんだこれ?

今度「はてなダイアリー」にテナントとして“出店”を決めたのも、この機会にできるだけ『婦人公論』を知らない新しい読者にも、この雑誌の面白さ、ユニークさを知っていただきたいと考えたからです。その“使命”を負ってブログ・デビューするのは、婦人公論編集部の年少“若葉マーク”2人組です。

 ということで二人組だそうだ。
 婦人公論って今は読売傘下だったよね。

そういえば…2…

 このところいつになく人と長く話すということがある。話が嫌いなほうでもないのだろうからなのだろう、結果として。ただ、そうした云々はあまり考えない。
 街行く多数の人とも、ま、それがフツーな人ならなにかしら話すことはあるのだろう。
 そうした延長にブログなりがあるのだろうか。
 と、ここで話がずこっとずれるのだが、自分が48歳とかになってみると、人生のいろいろな岐路というか選択が不思議なものに思える。
 世間では勝ち組・負け組とかいうし、ま、それは端的にカネの有無でもあるのだろうが、カネなんてシャバとともに消えていくものでもある。で、いい悪いとかじゃなくて、結婚する人しない人、子供のある人ない人…それってなんだろう、どのようなチョイスなんだろうと不思議に思う。
 もうちょっと言うと、というか、言うべきことでもないのだろうが、今日の文春だったか新潮だったか、どっちだっけ、中高年の性の話があり、ま、中高年になりセックスがどうみたいな、考えようによってはまいどの話、考えようによって、各人のまさにプライバシーというだけのことだが、ま、それはさておき、その歳こいて、せっせこセックスしている人しない人がいる。
 そうした違いというのはなんなのだろう。答えがあるわけでもないし、カネの因子もあるだろうが、案外、カネとか勝ち負けとはあまり因子でもないようにも思う。
 若い人は(あるいはある程度の歳でもそうかもしれないが)異性にもてる/もてないってなことが気になるものだが、しかし、もてる/もてないってのも、結婚、子供、セックスとかにはあまり関係がない。
 ふと思うと、人間も生物なんで、社会性以前に生物的なものだが、その次元での行動様式の要因の、そう少なからぬものがいわゆる社会要因でもなさげに見えるのはなぜなんだろう。
 広義の社会要因、教育・家庭環境まで含めると、強い因子ではあるかもしれないが……そうでもないようにも思う。
 じゃ、何?
 案外、生き方ってものかな。ただ、その生き方っていうのは、人生論!とか言葉でできているもでもないだろう。結婚したい、子供がもちたい、定常的にセックスしたい…といったものの価値性みたいなものはとくに声高に言うものでもない。
 ただ、各人が、たぶん、20代の後半から30代の半ばくらいで、そうした部分にある生き方の選択をしていて、それが、50歳近くなると、引き返せない結果とはなるのだろう。