中島義道、『ニーチェ ---ニヒリズムを生きる』、読んだ。

 ギドー先生の本を読むのは久しぶり。

cover
ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)
 相も変わらぬお元気なギドー先生で、今回は朝日カルチャーセンターとのもめた逸話なども含まれている。知らなかったがこれは別途本になっているらしい。そっちも読むかな。
 で、まいどまいどのギドー先生のお話を抜くとけっこうスカかなという印象はあったが、それなりにという失礼だけど、微妙なところが読み込めていて、その割にカント哲学の解説ほどの丁寧さというか厳密さはない。ギドー先生がハイデーがを嫌ってしまうのはわかるし、ハイデガーツァラトゥストラ解はなんだかなというのはある。余談だが、私はハイデーが注でも高校生のときに読んだ。
 この奇妙なアンバランスはなにかと思ったら、哲学塾でニーチェを四年半精読した結果のようだし、どうもインサイトの部分は参加者によるもののように思えた。
 というか、ギドー先生も随分と好々爺になってきた印象はある。お年も67歳である。人生を半分下りた50歳からもう随分と時が経っているのだ。
 当初、スカ感があったのは、引用が多く地の文との関連が読みづらいことだが、精読会の名残だと思うと納得しないでもない。
 基本ツァラトゥストラの解説本で、あの劇の仕立てもきちんと解説されているといえばそうなのだが、その点では、入門書だった「ツァラトゥストラ (教養ワイドコレクション (024))」のほうがわかりやすかったように思う。
 ツァラトゥストラなので永劫回帰が最終的なテーマになるのだが(劇的でもあるし)、その解釈はというと、悪くはないのだけど、あまりピンとこなかった。理由は、ギドー先生のニーチェ評が理解と分離されていないせいだろう。
 ニーチェ永劫回帰は、基本的骨格は、終末論と斬新的あるいは賞罰的な輪廻の否定にある。どこにも到達しない永遠は、ぐるぐる現在を繰り返すしかないし、そのように自分の生を受け止めて生きるということになる。永劫回帰というのは滑稽なオカルトの体裁をしているが、自分の存在というものを見つめた一つの究極的な姿だとも言える。
 そのあたりにもギドー先生の誤読はないのだが、「超人」や「力への意志」といったものを時間的に整合的に解釈しようとするあたりで、どうしても齟齬を招かざるをえないし、たしかにニーチェのなかにその矛盾はあっただろうとも思う。
 私としては、「超人」や「力への意志」、また、本書にはあまり強調されていないのだが「子供の国」というのは、永劫回帰的な時間とは交わらない時間というか、個人が「超人」であり、今の生の強度が「力への意志」ととりあえずしていいだろうと思う。
 このあたりは、ちょっとこっそりいうと自著『考える生き方』(参照)は実はニーチェ哲学を一つの基軸にしていた。自分というのはどこまでいっても絶望でしかありえないなら、希望というのはその自己の絶望の相のなかで見なくてはならない。そのとき、人が自身の絶望に安寧しないで、超人として力=生の意志に服して、自らの没落のなかで希望を「子供の国」のなかに見ればいいという、自分なりのニーチェ理解でもあった。ただ、私はニーチェとは違ってかなり有神論的ではあるので、ニーチェのような神の否定性の修辞は弱い。
 余談ばかりになるが、ニーチェの怖さは年をとってわかるようにも思う。ルサンチマンを払拭するのはそれだけで人生を消耗するに等しい。