最近はやりのニーチェかな

 ⇒はてなブックマーク - 「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評
 率直に言うと、なんかとても変な感じがして、少し考え込んだ。
 簡単に言うと、「なぜ人を殺してはいけないの?」とニーチェに問われたら、ニーチェはその問いが理解できないと思う。つまり、「人を殺してはいけない」という前提自体をニーチェは共有しないし、ニーチェと限らず19世紀の西洋人にとって意味をなしてないないはず。意味をなすとすれば、どのような人を殺してはいけないか、という、共同体倫理の文脈でしかない。 しいていえば、ニーチェにしてみると、ある部族なり民族がなぜ同一共同体内の人を殺してはいけないかという掟を持つのか、という、そういう限定された倫理の命題としてしか理解できないはず。
 ほいで、そのように問いをフォーマライズすればおのずとニーチェの答えも出てきて、ようするに共同体倫理と自身の関わりの問題になり、ニーチェにしてみると、それは力への意志に支えられた子供たちの国の問題として問われると思う。あと、ツァラトゥストラを読むとわかるが、ツァラトゥストラは病む者に優しい、ということで、いわゆる優生学的な思想は実はニーチェからは出てこない。弱いもの、病むもの生をとことん突き詰めることが実は、力への意志として問われている。ついでにいうと、「[書評]ヒトラーの秘密図書館(ティモシー・ライバック): 極東ブログ」が参考になるけど、ヒットラーはほとんどニーチェに関心なかった。いわゆるニーチェ伝説は妹が作り出した虚像ではないかな。
 それはそれとして。
 ⇒「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評

そこでニーチェはこう考えます。ならば、《信仰》がいかにして一般的な《真理》へと化けたか、その過程を研究するべきだ。《真理》がいかにしてでっち上げられるか、そのルールを議論すべきだ。

 ええと、これちょっと違うかな、なのは、「一般的な」という言葉の意味合いがよく理解されていない点。
 日本人だし日常語だから、「一般的な」というのをそういうふうに使ってもいいんだけど、つまりこの日本語の文脈は「一般的な真理」を常識とか通念程度に扱っているのだろうと思う。
 が、これ、西洋の文脈だとルソーの「一般意志」を想起してもわかるけど、「一般的な《真理》」というのはちょっと違う意味合いを持つ。
 で、ニーチェの場合、こうした真理は、いわゆるキリスト教倫理の世界における真理を指している。という意味で、神の支配という意味合いなんですよ。

ニーチェは、政治ゲームで優位に立ちたいという欲望を「権力への意志」と表現しました。この「権力への意志」を弱肉強食の非倫理的な概念だと批判する人もいますが、本来「権力への意志」はそれが善いか悪いかといった道徳的な話ではありません。むしろ「権力への意志」を持ち、政治ゲームに勝った《信仰》だけが《真理》となり、善いとされるのです。この意味で「権力への意志」は、善いか悪いかといった対立の向こう側(善悪の彼岸)にある事実と言えます。

 これもそういう見解が間違いだと一概にはいえないのだけど。
 まず、「権力」なんだけど、英語でいうとなんだが西洋語の語感はだいたい同じようなんで、つまりこれ、"Will to power"ということ。で、英語でWill to powerというのが、ヒラリー・クリントンみたいな権力への意志、という含みもあるんだけど。
 問題は、powerつまり、「力」というのをどう考えるか、にある。
 このあたりに限ると、ハイデガーよりドゥルーズがよく説いているんだけど、簡単にいうと、快活に生きる生の活力、ということ。
 ニーチェの頭の中の図式は、キリスト教倫理つまり神の支配というものが、生命の活力を抑圧し、そのことで大衆にルサンチマンを発生させ、ルサンチマンを迂回して、正義の概念を生から倒錯させてしまったことは間違いである、という思想なのな。
 つまり、自分を体制なりの被害者であり、その被害の怨恨によって自身の正義を裏打ちするということは、ダメだ、おまえ、というのがニーチェの思想。
 はてな的にいうとこの手のネタに共感しちゃうのがニーチェの敵。
 この手⇒はてなブックマーク - 30代がいますぐ自殺するべきいくつかの理由 - こころ世代のテンノーゲーム
 むしろ。

kenjiro_n phishing いつもの発作みたいなエントリなのに何で300人以上もブックマークをつけてるんだろ? 2010/05/05

 というのがニーチェ的な感覚。
 話戻して。
 「権力への意志」を持ち、政治ゲーム」という側面もあるにはあるし、マックス・ヴェーバーなんかそれに近いとも言えるのだけど、ニーチェの思想は、「政治における権力」というより、人の生の発現を見ている。
 もうちょっというと、このあたりは、ハイデガーのピュシス(自然)の本性にやや近い(かなり違うとも言えるんだけど)。
 ほいで。

さてここからはニーチェの思想に対する私の意見です。ぶっちゃけて言うと私はニーチェ的な思想は好きでありません。「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》だなんて、吐き気がするほど感情的な反発を覚えます。それに私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです。

 まあ、ニーチェの思想をどう受け止めるかによるのだけど。
「「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》」というのではなく、それはある共同体の「掟」の問題としてしかニーチェには見えないだろうということで、「吐き気がするほど感情的な反発」であれそこから離脱するとき、ニーチェが問うのは、またしてもそれはルサンチマンの回路に陥っていないか?ということ。ややアイロニカル言えば、「私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです」はニーチェの嫌悪するキリスト教倫理者の言葉に似ていること。
 そのあたりから、結果が、私の理解するニーチェとはかなり異なる。

 政治ゲームに自覚的に生きるのも、あえて無自覚的に生きるのも、あなたの自由です。しかし、妄想ゲームか政治ゲームかという単純な二元論では現実を把握できません。政治的にうまく立ち回るためにあえて愚昧な宗教に入信するという打算、環境をとにかく守りたいという盲信がついには国家や経済を動かすという世界情勢などなど……。

 ニーチェは人が自身の生を肯定する生き方を、共同体を超えていくあり方として選択せよ。その選択のなかに、すべての苦悩とただ一度の恍惚をもって是認せよ、永遠に続く苦痛に対してすべてを生の快活の光に照らすただ一回の正午と対峙せしめよ、来世や神の国と言ったものを否定する永劫回帰というファンタジーを理解せよ、ということ。このあたりから、すっかりニーチェキチガイ用語になってしまうけど。
 もうちょっというと、あなたの生の選択を共同体の同胞市民に問いなさい。希望をもって問いかけなさい。その結果としてある政治というものに希望を持ちなさいということ。
 どんな愚劣な世界であっても、それが自分の生であり、ただ一つの生の開花に対峙させてルサンチマンを克服しなさい、ということ。
 あなたの人生をして、生きてよかった、生きることはこういうことであるかと言わせる圧倒的な力、ただその一瞬の光のなかで生の力を見つけなさい、ということ。