処女厨、あーそれはないな(大人毛ない話の続き)
ブコメに反応するのだが⇒はてなブックマーク - 大人毛ない話 - finalventの日記
API 男女, 心理, 恋愛 なんかちょっとかっこよく言ってるけど言ってる事は処女厨とそこまで変わりがないっていう。 2009/06/28
そう受け止めてもらっても、それはそれでご自由になのだが。
が、というのは、処女厨、ということでいうと、あーそれはないな。
という話をついでなので補足。
その前に、実は「処女厨」という言葉の意味を知らない。たぶん、恋人には処女を求めるという意味ではないかと思って以下書くのだが、的外れかもしれない。
恋人が処女であってくれという思いは、少年のころからない。なぜないのかというのを、実はしばし思い巡らして、そういえばその手の話はさっきの話に似ているなと思って、ネタという程度のことなのでついでに書いて置こうということで、全力でブコメに反応というものでもない。
私がポスト団塊世代という話は以前書いた。ポスト全共闘世代と言ってもよいかと思う。全共闘世代も、戦中派の左翼も、個々に事例をあたってみると、なんのことはない田舎娘をこますのがその生態だった。なので処女の言説が各種覆っていた。このあたりは、柴田翔の「されどわれらが日々― (文春文庫)」や「「贈る言葉 (新潮文庫)」を読んで爆笑するとよいと思う。まあ、そういうことが愛とか性に関わる奇妙な時代があった。この手の歴史が知りたかったら、 富島健夫の「雪の記憶 (徳間文庫)」も面白い。まあ、面白いよ。さらにというなら、五木寛之の青春の門とか、長いけど、ほぼ漫画。今の70歳くらいの爺さんたちの青春と性の時代はあんなもの。それから60歳くらいの青春はそれの劣化版。
そうした馬鹿騒ぎが終わった私の世代では、社会はきちんと階級制に戻っていた。だから処女がどうたらというのは、それぞれの階級の家の論理や倫理で動いていた。上から下までいろいろあった。しいていうと、中間層的な部分は上の志向を持っていたから、私みたいなのは律儀な性の道徳性があった。が、その道徳性のというのは女性の人格の尊重であって、だから、処女性というのは二義的だった。下層では処女は性の問題であり、上層では性は家の問題だった。中間層的な部分では、民主主義がぎこちなく動いて人格の問題になっていた。それと自分についてはキリスト教的な傾向の強い生年だったから、「わたしが・棄てた・女(遠藤周作)」みたいな愛情観も若干あった。もちろん、今思うとそれほどでもないな、普通に性にがっつく青年で「明日また電話するよ(山本直樹)」の表題作が痛いなぁ的な懐古もある。
それでも性のいわゆる性の部分というのはあり、じゃあ、それは自分にどうだったかというと、「 二十歳の原点 [新装版](高野悦子)」が決定的だったかもしれない。17歳18歳のころ、私は高野さんに恋していたみたいだったし、その性の内省を深刻に受け止めていた。このあたりは一言ではいえないのだけど、いわゆる処女厨とは違うものなんだが。
でも、高野さんについて自分が決定的に勘違いしていた部分があって、その頃、親友というか友だちが、お前、「二十歳の原点序章 [新装版](高野悦子)」読んでないだろ、と言った。そう、なぜか読んでなかったな。読んだ。泣いた。号泣。
50歳の自分にしてみると、高野さん(未だに自分のお姉さんのような幻想がある)があの運命を辿ったのは処女喪失の問題はあったかもしれないなとは思う。ただ、それでも、自分が青春時代にはその問題は、逆に思っていた。つまり、そういうものは人格性や愛において乗り越えていくもんなんだ、みたいな。
つまり、処女であるかじゃなくて、今の恋愛の関係はどうなんだというのと、性への渇望みたいのが先にあった。処女であるかを問う疑念はその、真摯な恋愛性みたいのの裏切りのように思えていた。くどいけど、APIさんにわかるくらいにしつこく言うと、「今の愛によって過去の愛なんかどうでもよくなるくらい愛するんだぁ!」というふうに突き進んでいた。
じゃあ、その恋に恋する青年の私はどうなったかというと、ずたぼろになった。それでも処女を求めるみたいのはなかった。ずたぼろ後はどうなったかというと、ずたぼろ後なんてものがあるのかというとあるにはある。
処女の英語はvirginで、「童貞」を内包しているわけで、じゃ、それに対するお前の童貞喪失はどうなんだというこっぱずかしい話はあるにはある。吉行淳之介がそれだけは書きたくないと言っていたが、自分についていえば、ディテールがありすぎてこっぱずかしいだけ。
それと。
ついでに補足しておくかな。
funa07 人間 なんか、「女」としてくくるにはサンプル数が少ないんじゃないだろうか。もしくはあまり深く関わらずに表面的に判断したか。男性ほどではないにしろ女性も結構ばらつきがあると思う。 2009/06/28
sikabane2 「男もそうじゃないかと言うかもしれないが、自分はしない」と言っておいて女は一括りにするのが本当不思議。「女は」って主語を簡単に使うな。誰か一人イケメンと寝りゃ「女は」と失望されんだからやってらんねーよ 2009/06/28
その逆なんだが。というか、そういう発想ではない。つまり、サンプル数を多くして女の総体性を理解しようというのではないのだよ。そんなことは微塵にも思わない。女には人格性を求めるから、そういう部分以外の性として女も男も捨象されていたということなんだ。あるいは、女に実存の一回性を求めるから、他は類の問題にしか見えなくなったということ。