書くというか生きるというか痛いというか

 新潮45に掲載されている中村うさぎの話を読んでいて、本人も痛いなばばあだ自分、と思っているのはわかるが、ちょっとそういう痛さとは違った痛さを感じた。彼女は私と同学年である。同じ時代をきちんと生きてきたし、彼女の、ちょっと軽く書かれたものや息づかいにも実は時代性を私は感じることができる。そして、30歳以降の空虚感もよくわかる。いや自分なりにわかるというべきか。
 ちょっとアレな言い方だが、私は、ふっと夢のなかであるいは無意識に、岸本葉子のような奥さんがいるように感じることがある。彼女のファンだからという妄想みたいなものかもしれないが別に彼女でなくてもいい。3、4歳下の知的で痩せた奥さんみたいな女性。私が若い頃人生にこけず、そのまま商社とかメーカーとかに就職していたら、そうであったようなご夫婦。もっとも、私にはそういう人生はなかったのだが、その岐路みたいのを満帆で歩む別の世界のもう一人の自分がいるような気が少しする。その幻想には彼女ような和風で痩せた奥さんみたいな妻がいて大学生の息子でもいそうな。もちろん、そんなことはない。岸本葉子にしてもそうした人生は歩まなかった。先日日経Womanで彼女の学生時代の恋愛の話を読んだ。まあ、いろいろあったのだろう。
 中村うさぎのように同年代の女性が妻にいるという幻想みたいのは、私にはない。私は同年に近い女性がはっきり言って恐い。いろいろ理由はある。省略。それでも同年の女たちに関心がないわけではない。彼女たちがどう生きてきたのか気になる。プールなどで少し老けた女がいるとついちろちろと見て50歳くらいだろうかと思う。もし、私に同年の妻がいたら、それなりに若造からは婆と呼ばれる肉体にはなっているころだ。
 中村うさぎは、整形もしたし、胸になんか入れたりもした。そうしなくても、それほどブスというほどの女性ではない。ある種のナチュラリティを体得したら、ござっぱりとした老いの姿ができたのかもしれないとも思う。オイリュトミー関係の人々が持っているさらっとした老いの姿のようなものを獲得できないわけでもなかったのだろう……と言いながら、やはり無理だろうか。
 新潮45の彼女エッセイのなかで、27の男がおセックスしてくれて、というくだりで、中折れせず射精までしてくれていとおしいみたいな話があり、ああ、女というものはそういうものかとも思った。ネットの文章でいえば釣られているといったものだろうが、同い歳の男としてかわいそうというのでもないが痛いような感じはした。もうちょっと下品に言えば、まあ、彼女からして私など好みの男でもないだろうが、50歳の男が50歳の女に中折れせず射精までできるだろうか。もうちょっと言うと、俺はやるよと言いたい思いがふとわいた。そのくらい愛してやるよとも。ただ、実際にそうできるかはわからない。逆に27の女に対して中折れせず射精までというとそれもどうだかわからない。ちょっとお下品な話になってしまったし、そういう性関係を持ちたいという願望でもない。はてなみたいに若い人の多いコミュニティ化した言論の空間だと、おセックスなどもまだそういう中折れしないか射精までできたかみたいなのはただの老いのようにしか見えないだろう。だが、そこに案外男の生き様というか男の生き方があると思う。
 男の生き方というは、もちろん、私なんぞが言わなくても私くらいの年齢のゴロ男とかがぶいぶい吹いてくれるだろうが、30、40の女を抱くとかそうした女の幻影をもった女を語ることではない。中村うさぎのような50の女を抱けるかという、彼女に失礼な言い方になってはいけないが、そのあたりが問われる。もっとも女にしてもそういう側面はあるだろう。
 ⇒極東ブログ: [書評]「快楽 ― 更年期からの性を生きる」(工藤美代子)
 ⇒finalventの日記 - カラスが賢いと言えば
 団塊の世代はある意味では、言い方はわるいが、全員一種の新興宗教青春恋愛教団みたいなところがあるし、そうした青春恋愛の一種の新興宗教的な情熱が実は西洋近代的な個人の意識と同型であるのだろう。
 私の世代、つまり、今年50歳になる世代からは、もうそういう個人はいない。私たちが個でありうる幻影などはなかったし、青春恋愛というものより、もっと原点からさみしいものがあった。その後、青春恋愛は商品となったし、個はコンシューマーになった。まあ、世代論はどうでもいい。
 愛が問われているのだと、と、そう書くことにしばしためらった。そしてその先を書くことができそうにもない。
 ま、こんなことを書くと若い人とか上の世代からは「暗い」とされますかね。暗いのかもしれない。が、そういうなんというか、自分側からの主体的な意識というのはある意味私は放棄している。この問題はそういう問題よりもっと暗くてどうしようもないものがあるのだろうと、目の前のボールペンをボールペンだと見るように見るしかないのだし、と思う。