ありがちな思想の錯誤

 ある年代以上で思想に関わった人間ならほとんど暗唱している吉本隆明「マチウ書試論」だけど。

 人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。

 全共闘世代が残した唯一の遺産たりえるのはそのあたりかもしれないと少し思う。
 finalventに対して、お前は中国に謝罪せよ、イスラエルに加担する卑怯者だ、とか言う日本人さんがいらっしゃるが、「人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである」がわかっていないのだろう。そう言う日本人とfinalventとは、日本国家という関係の絶対性においてまった変わるところがない。対国家の関係における関係の絶対性において、finalventもその批判者も同じ日本人として疎外された存在であり、そこを考察しえなければ、「人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る」というだけにすぎない。そしてだからそれが何ももたらさなかったのが戦後の思想の荒廃だ。
 荒廃を深化させているのは、関係の絶対性を隠蔽して批判できうるという幻想の優位を、他国民に依拠したような偽装するからでその偽装が限りなく、個の国家的同値性における自罰の形態を取る。これは倒錯した形の自己尊大化幻想でしかない。というか、それが権力の欲望であることに気がつかないのかこのバカ、といった類だ。
 人は国家の関係では正当に矮小でありうる。というか、それ以上の存在としては疎外されない。
 では思想とはなんであるかというなら、その関係の絶対性、つまり、国家幻想をその内部から止揚するにはどういういう道がありうるのかと問わなければならない。
 吉本はその矮小さを無限に押して共同幻想(国家)をゼロにする未来を描き、その道に、対幻想を置いた。ぶっちゃけいえば、男なら己の生を女すべてに掛けるといっていい。そうした生きた男女はすでにやすやすと国家幻想を超える、かもしれない。だが、人はおそらくそう生きることはできないのではないか。また、男女はその子を国民として生すことになるではないか。
 吉本が見失ったのは、国家幻想に倒立した形になる個人幻想を、まったくの共犯の関係と見なしえなかったことだろう。とはいえ彼は「市民」を拒絶する。市民は国家と同値だからだ。ところが残念ながら、思想の自由とはこの市民=国家に依拠する。

ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。

 「孤独が自問する」とき、それを「ぼくたち」と呼びうる連帯が薄らと想定されるが、それもまた市民原理であり国家に行き着く。
 吉本は80年代に革命の幻想を捨てた、というか不断革命とした。欺瞞の臭いはするし(本当は捨ててないのではないか)、彼自身、国家権力の直接的な暴力には敏感だった。が、その答えは見えてこない。
 市民が国家を超えるなら、国家を超えた人間を定義するように国家の向こうに声を発していかなくてはならない。国家の内部で偽装された正義が権力を振るうのではなく。