夕方のtwitterでの発言の補足ログ

 意識の問題と存在の問題の違いのわからない人は多い。つまり、その人がどのような思想を持っているかということと、その人が社会構造のどこに嵌め込まれて存在しているか、ということの違いについてだ。
 いくら意識を改革しようが知識を得ようが、存在に変化がなければ社会構造は変わらない。そして、社会構造が各種の権力を生み出していくのであり、人の存在、つまり社会的存在は常にその権力の機構の一部になっている。意識的に、思想的に否定しようがしまいが。そして意識も思想もそれらの権力の仕組みとは原理的に断絶している。
 あるいはこう考えてもいいかもしれない。主体と想定している個人の意識と、その社会構造の機能としての意識の差異がどこにあるのか。個人がどのような思想を選択しようが個人の趣味に近い。だが、社会機能として存在しているとき、社会システムのなかで各種の権力を構成していく。その社会にもし差別や不当な権力が存在すれば、社会的な存在を介して責を負うのであって、思想によって負うのではない(公人は除外)。
 では、その社会存在として、人はどのように存在するのか。
 社会は、個人の内面からは2つの相を持つ。一つは、まさに社会としての共同性。もう一つは性の関係や家族の関係。そこには本質的な矛盾がある。
 太宰治は「家族は諸悪の根源」と言った。それはまさに悪として機能しうる権力の原点になりうるからだ。単純な話、縁故の特権を思い描いてもいいだろう。
 だが、そうした家族幻想の特権性とその機能を悪と見る見方はすでに家族幻想の外部に立っている。その意味で、共同性の善悪と家族幻想の善悪は相対的になる。立位置の差異というだけで、そこから超越的に善悪が存在するわけではない。
 だが、「正義」というものは、この本質的な矛盾に暴力的に介入する。なぜか?
 正義とは思想においては、宗教的な信条(クリード)でしかない。「私は平和憲法を愛します、私は死刑に反対します……」「私はイエス・キリストを信じます」「私は※※こそが正しい政治原理だと確信しています」。
 こうした正義のクリード(信条)を語らせるとき、それはどのように真実たりえるか? なにがその人のクリードを保証しているか。つまり、その質(しち)はなにか。
 正義のクリードの質は語り手の「本心」ということになる。だから、正義を問い、糾弾するものは、必ず「それはお前の本心か?」「お前はクチではそういうが本心はこうだろう?」という形式を取る。
 だが、実際にそうした正義の糾弾の枠組みで問われるのは「本心」という語りではなく、最後に質としての身体を要求することなのだ。身体が「本心」を保証している。
 正義の社会的な機能が、クリードと化するとき、必然的に身体的な拷問、あるいはその模倣の形態を取る。いずれにしてもその目的とは、身体的な苦痛である。
 あるいは、「それが本心の語りである」とするには、「身体を最終的な質にすべく、自殺せよ」という形態を取る。
 クリード(信条)としての正義はそのような帰結を持つ。
 ゆえに、ある倫理やイデオロギークリードを表明することで自身が正義たりえると思っている人は、愚か者の極みである。あるいは、身体的な暴虐者に容易に変化しうる。そして、まさに、正義のクリードの力とは、その暴虐性にあるのだ。
 正義を語るセクトがどのような残虐な結末を迎えたか歴史は多数の例を残している。
 人が正義のために死ぬ・殺されるという本質的な倒錯を避けるためには、その人の価値性を存在の原理のなかで回復しなければならない。
 だが、そのとき自然に立ち上がるのが、なんとも家族幻想なのだ。ある個人の身体的な暴虐を最終的に防ぎ得るのは、非思想的な愛情の直接的な行為だ。
 であれば、家族幻想という悪は、正義において相対化されなくてはならない。太宰治の「家族は諸悪の根源」というテーゼはここで奇妙に逆転する。
 国家の問題が本質的にやっかないのは、その幻想の内部に疎外化された形態であれ家族幻想の根を持つからだ。それは正義のクリードによっては相対化できない。対等の位置にあるからだ。そして、しいて言えば、正義のクリードが家族幻想の内部に入ってはならない。
 ここでもう一つ奇っ怪な問題が起こる。家族の幻想は、正義を迂回して国家の幻想に吸着する。
 例えば、戦前日本兵はフィリピンで現地妻との間で子を持った。その子は日本人か? こういう問題を考えてみよう。
 その子が日本人だと誰が決めているのか。もちろん日本国だ。
 ではなぜそのような日本国を日本国民は是認しているのか。
 という是認の主体は個人の意識主体ではなく社会に疎外された意識になる。私たち日本市民の存在がその関係性を通して、その国家の意識を援助している。
 逆を問うてみよう。日本兵とフィリピン現地妻の子は日本人であるべきか? 
 その決定性は個人が持ちうるか? 
 持ちうる。ではその子が日本人たらんとしていることを日本人は支援すべきか? 支援することにどのような意味があるのか?
 戦前の日本も戦後の日本も国籍について父性の原理を持っている。機能的に見れば父性のスイッチにおいて同胞愛が制御される。そこで、フィリピン孤児の日本人化は父性原理による国家というものの是認を含んでいる。
 それは無前提に是認されるものだろうか。しかし、社会存在として私たち日本市民はそれを是としている。そしてそれは何をもたらしているか。
 派生的な例。この日本国家の父性原理は敗戦時の米兵に暗黙に適用された。その子たちは、形式的には日本人とはなったが、実際は日本人から排除された。この個別の問題で言えばエリザベスサンダースホームの問題がある。露骨に言えば、戦後の米兵向けに慰安婦とされた日本人女性の子供に戦後日本がどう向き合ったか?
 フィリピン孤児の話に戻る。
 子の国家への所属は父性原理の血統主義ではなく出生地主義がありうる。
 だが日本人は戦前戦後を通してそれを拒絶した。出生地主義ならフィリピン孤児は日本人ではなくなる。日本国家の父性血統主義を否定するというなら、その孤児たちと私たち日本市民の関わりはなくなる。
 だが、まさにそれこそ、「機能的に見れば父性のスイッチにおいて同胞愛が制御される」ということだ。
 例から離れる。
 国家による国民の選別は同胞意識の機能として現れる。そして、その機能は、日本人個々人の社会存在な疎外に由来する。
 そして、その選別には、選ばれる者と選ばれない者を生み出す。その差異を例えば、弱者である・被害者としても、それは構造の問題で、ありそこに向けた主張はその構造のインタフェースに疎外され、個々人の主張とはなりづらい。いや、ならないわけではなく、社会機構への疑念となるはずだ(正義の主張ではなく。かつ自己をその存在を含めて批判的に捉えることになる)。
 ここで最初の提起に戻る。相対的な問題の枠組みのなかでは、意見の対立がどのようにあってもやはり相対的にしかならない。
 なのに、その枠組みのなかで話者はさも、正義を語りつつ、絶対性の立場=存在の主張を倒錯的に始めることがある。でもそうした特権的な存在は相対的な枠組みでは矛盾する(フィリピン孤児と国家を介した同胞愛の矛盾のように)。