離人症的な感覚

 昨日のカウンセリング話の続きのようなこと。離人症的な感覚のこと。以前も書いたと思うけど、まあいいや最近なんか自分の内面がリニューしているようでもあるし、どことなく、誰かに語りかけているような(ちょっとオカルトめいているが)感じもするし。
 離人症的な感覚については、これが詳しい。

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異常の構造 (講談社現代新書 331): 木村 敏
 木村敏の他の著作や、ビンスワンガー、メダルトボスなどもその後いろいろ読んだが、ざっくり見るとこれが結局名著なのではないだろうか。ただ、木村の解説はそれほどでもなく、ようするにここにモデル化されているいくつかの事例を読むと、げ、これまさにそうだというぞくっと感があるかないかが重要で、今思うと木村は実感としてはこの世界を覗いたことはないのではないか。
 この本だが、アマゾンの読者評に星一つがあるのでどんな憎悪が書かれているかと見るとボケだった。こういう星一つはどうしたものかと思うがご愛嬌だろう。他の評に香山リカが推薦しているとの話があったが、たぶん彼女のような、率直にいうと感受性の鈍い人も理解できない世界ではないかというと香山を腐しているみたいだし、また感受性と離人症とはまた違うかもしれない。
 ただ、あの世界は比較的簡単に、わかる人には、あ、これだとわかるものだ。それがいいことかどうかというとちっともよくない。今でも覚えているが一番顕著なのは、世界がフラットになることだ。昨今でも世界のフラット化みたいな与太が語られているがマジに世界がフラットに見える。遠近感が喪失する。もちろん3D的な空間認識ができないわけではなく、そのあたりは渦中自分でも確かめたがきちんとある。片目の人のような遠近感の難しさはない。物は手に取れるし歩行も問題ない。ただ、世界が絵になってしまう。人も絵になってしまう。この変な感じはなんといってのかよくわからない。テレビや映画のようなメディアを見ているという感じではない。むしろテレビや映画というのは普通にフラットではない世界だ。ただ、絵なのだ。ユトリロの絵やセザンヌの絵にも若干あの奇妙な感じが潜んでいるし、この視覚と色合いはモネのようでもある、と今書きながら、あの世界はどことなく近代絵画に似ている。美しいといえば美しい。ただ、自分に関係のない世界だ。これに鬱が混じる人もいると思うが、鬱とは独立しているようだった。
 思い出すが、もう一つ、自分がいないという感覚がある。自分が自分のなかに入っているという感じだろうか。このあたりは自傷の人と共通しているのか。おや、自分の肉体があるな、ということは自分がいるな。本当にこれって自分の肉体? つねってみると痛いや、ほお感覚もあるじゃん、という感じで、しかし、この滑稽さのようにどこかしら自分の身体感覚がずれる。特に苦痛はないが、体が窮屈なというかぎこちない感じはする。対人関係もこなせるが、疲労感はある。ああ人間やっているのしんどいみたいな。
 と、書き出した、こういう人はけっこう多いのではないかな。リアリティの喪失だ、本当に生きていないみたいな熱い語りの世界ではない。なんか違う。よそよそしい。おフランス実存主義などの基底な感覚にも通じるというか、サルトル「の水入らず」だったか似たような世界がある。
 現在の私にあの世界の感覚はない、と言いつつ、内省してみると、ないにはないのだが、どこかで包括した感じはある。他の狂気についてもいえるのだが、自分はこうした精神的な危機を包括なり理解なり、自分なりの深化によって乗り越えてきたというか、乗り越えだったのかわからないが、包括してしまった感じはある。よくネットで罵倒されるしその一環にキチガイ呼ばわりがあるが、当たっているんだろうな、俺はキチガイというか一種の気持ちのわるい精神体ではあるなと思う。が、反面、凡庸だしそうしたところにもそれほど自己愛ももたない。むしろ私のようなキチガイに関心を持つなり憎悪をもつなりするのはその人がまだ内面のある包括性を知らないのだろうとは思う。ご苦労様。悪意はないよ。
 離人症的な状況だが、この人生のままもう戻らないのかというか、戻らない人もいるだろう。苦痛は苦痛。ただ、自己がない苦痛というのがまた伝えづらい。ただ、病的だな、もう、だめかと思ったのは、今でも覚えているが、ソファに座りながら自分が悲しくて涙を流してないているのだが、へえ俺、悲しいのかなと見ているときだった。涙がどぼどぼ出て身体的には悲しいのだが、意識がそこに到達できない。へえ僕って悲しんでるんじゃん、ふーん、みたいな感覚で、ただ、おい、それって変だろ。俺は悲しんでるんだよ、ほっとくなよ、お前の一番の友人って言うのはお前じゃないのかみたいな危機感が出てくる。というわけで、ソファーを拳で叩いてみると。感情がもう少し身体に響くといいなくらいな感じ。で叩いてみると、ほぉ、なんか怒りがありそうだと思って、そのころ読んでいたアーサー・ヤーノフの原初療法じゃないけど、怒りみたいな表現をするとなるほど怒りのようなものはある。そして泣いているんだから、こりゃどうみても感情錯乱しているでしょ、俺と思うのだが、反面というか離人症ボクはなんとも思っていない。おかしいよ俺とは思った。そして苦痛は感じられないわけでもない。
 と書きながら、今思うとやはりこの感覚を包括している感はある。その後、人生の危機なんかにいろいろ遭遇するのだが、ときおり戦略的にこの離脱の感覚を使っているような感じがする。やべー今人生の危機だぜ感情に巻き込まれている場合じゃねーよ、カチっみたいによくやっているな。それってなんだよ。
 もうひとつ、極度のヴィーガンをやっていた頃、この離人症ではないが自然と一体感みたいのがあったが、あれもなにかそれに近い。してみると悟りのように思えるかもしれないが、後にこれは悟りなんかじゃないよ悟りというのはこれのまったく逆だ。俺はいる。ここにいる。過去もいるみたいなむしろ確信で、この時も、うーもう死ぬみたいな苦しみにあった。というか、あの苦しさのなかでは離人症的にはならなかったし、この意識状態を使いもしなかった。普通にリア王のような苦悩があったな。あはは。あははじゃねーよ俺。
 中村うさぎのエッセイが好きでよく読んだが、彼女は微妙に私のようなこの世界に近いのかもしれないなとは思う。離人症的な描写には遭遇しないし見た感じそうでもないのだが、まあ、彼女は彼女の包括性があるのだろうと思うが、あの身体攻撃やつっこみコビトの感覚はこれに近いのだろう。というか、普通に自我という病はこうした構図なのかもしれない。ただ、中村うさぎについては、私もそうかな、書いているときの自我は安定しがちというのはある。こうしてさらさらあの不気味世界を書いていても暢気だ。書くという意識体制はそれなりの統一感があるからだろうか。それで隠蔽されちゃうものも多いのだろう。書くことが救いになるとは限らないし、およそ救いというのはよくわからない。
 総じて見れば、離人症的な症状は、脳の現象だろうと思うし、こうして書いてみて自覚するのだが、意識モードとして使ちゃう人は少なくないだろう。と同時に、この世界に落ち込んで「苦し」んでいる人も多いだろう。「苦しい」とは違うだろうけど。もうちょっと言うと、女性で、旦那や子供がいて職場とかあって別に世間てそんなものと思って小さな幸せもあって、それでいてふと、あああ自分は空っぽと思う人は少なくはないだろう。「人生が空しい」みたいな表現ついあてられるだろうがちょっとそういうのではないとは自覚している。なにより、どっかもう自分はどうでもいいや。回りの人と静かに生きていこうみたいな。まあ、俺も似ているというか、そんな感じのセトルメントはある。
 こういうのが宗教の温床か? 自分探しか? というと、微妙。自分の観察では、いわゆる新興宗教とか自分探しに入る人は、結局、他人が必要な人なんですよ。友だちというわけでもないけど、他者と世界観を必要としてしまう人。ところが私たちみたいなプチ離人症人はそれほど他者は必要ないし、他者にあまり暴力的ではない。けっこう静かなものだし、人生どこにも出口もないなとは思っている。このコーヒーおいしいとか一人思っている。孤独とか孤独が好きっていうことでもなくて、人といて楽しいにはたのしいのだけど、まあ、人生だからねみたいな感じ。(でもここはたぶん欺瞞あり。)
 もっとも、その裏にぞっとするなにかがあるのだけど、というか中村うさぎはそのあたりちらちらめくって商売にしているし、私なんかもそのぞっとしたウワバミ色スライムみたいのを出してしまうわけで、まあ存在の欺瞞といえばそうなんだけど。
 
追記
はてなブックマーク - 離人症的な感覚 - finalventの日記

2008年07月29日 loser_xx メモ "自分の観察では、いわゆる新興宗教とか自分探しに入る人は、結局、他人が必要な人なんですよ。"  クリシュナムルティやミンデルを読んでいるfinalventさん自身のことですね、わかります。

 そう決めつけないで、クリシュナムルティやミンデルを読んでみるといいよ。きちんと読めるなら「新興宗教とか自分探しに入る人」とは逆な世界がそこにあるから(ま、そう読めない人もいるからloser_xxさんのようにループするかもしれないか。
 あと僕がミンデルをどう見ているかというと⇒極東ブログ: [書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)
 クリシュナムルティについてはまあ語るだけ無駄かな。僕が彼をどう考えているかについてはブログ時代では書いてないはず。極東ブログでもあえて直接書籍を取り上げたことはない。その意味も、「わかります」だといいけど、や、「わかります」はそういう方向じゃないんだろうね。