いつもの

 自分より10歳くらい年上の団塊の世代、あるいは5歳くらい上というのか、まあ、私より少し年上の世代が、50歳を越えて、なにやらすんなりと青春回帰というか、青春の一貫性のようなものを維持していることに出くわすと、私は憎悪のような羨望のような思いがする。私はどこに帰れない。帰りたいという思いはあるが、それはできない。
 もちろん、世代の問題ではないのかもしれない。ただ、自分より年上に見えるある一群の人々の生き様にある憤りを感じているというだけかもしれない。
 では、下の世代へはというと、私には下の世代への語りかけは、どことなく人造的な感触がある。自分でもそう感じているのだから、聞かれるほうではよほどうさんくさく思えるだろう。
 とにもかくにも50歳(まだジャストではないが)まで生きてきたんだというのが、なにやら安堵のような抜けきらないような疲労感のようにある。世の中には自分くらいの歳で分別もなくカネやイロに狂う人間がいるが、そして私はどちらかというとそういう人々に同情的なのだが、それでも自分では現実的にはそれはないだろうとなんとなく思っている。それは、自分はなんだかんだ言っても自殺はしないだろうという、ある何か決定的な喪失に近い感覚だ。この感覚のむこうには離人症的な何かがあるのは知っている。しかし、自分のある衰弱がそれを守っているようでもある。
 最近はネットのなかで昔の知人やら親戚なども見かけることがあり、ネットも変わったものだなと思う。と同時に、自分もさすがにそろそろこんな所にはいられないのだろうという思いもする。終わりは近いなとぼんやり思う。ブログの世界になってもうすぐ4年。大学の学部なら卒業する時期だ。ではどこへ行くのか。
 特に行き場もない。またどこか海辺にでも出奔するのか。それも振り返ってみれば面白い経験だが、もうそんな気力もない。
 じわっと死を待つだけか。なんとか生きていればいいさという腹のくくりはできている。神が存在するのならそれを賛美するにいささかの不都合もない人生だったと言っていいだろう。ただ、神はそのようには存在しない。
 大森荘蔵は時は流れずと言った。哲学的に語ったし、そう自身を律していただろうが、一番根底にあるのは、時は流れないという、懐疑を経た確信だった。おそらく道元の悟りというものも、時は流れず、というものだろう。
 私の中に、時は多く滞っている。春が近いせいなのか、呆れたことに十代以前の感覚がヴィヴィッドによみがえる。野を走る子供を見ているうちに自分がそれと同じ意識に打たれる。四十年という時間はどこからやってきてどこに消えたのか。そして少年の私、青年の私。ある大きな挫折また挫折というごとに時間のなかに栞のようなものが挟まるがそれでも、ある疲労感以外には時は重ならない。今があり、記憶の今があり、私はなぜか今生きている。
 父の人生を思えばあと10年生きていられるだろうか。私が死ねば私は永遠に死んでいるのだ。無だ。と、もちろんこうしたことは言葉で語ることとそのリアリティの知覚は異なる。私はどこから来たのか、なぜここにいるのか、なぜ消えていくのか。それらすべてのマーヤーは今の私のある疲労感のようなものだ。私は今ここにしかいない。時は流れない。私はたぶん実際には長い眠りのようにその死に気が付くことはない。もっとも苦痛はいやだなと思う。
 少年のとき、青年のとき、そしてその後も少し、魂を揺すぶらせるような、狂気のように自分を駆り立てるあるリアリティがあった。それがすっと老いた猫のようにうらぶれた道を横切る。死という対価を引き換えにその猫の妄想に人生を与えることが可能であるかのように少し心臓がときめく。しかし、天使が舞い降りて鏡を受け取るとそこに老いた自分だけがいる。