それもそうなんだが

 ⇒顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える: 岡崎京子と、岡崎京子的なるもの
 最近書いたものか、あるいは以前書いたのを再録しているのかわからないが、日付的には最近なので以前の文章であれ今でも概ね考えは同じということなんだろう。で、書かれていることはまさにそのとおりで、あえて偽悪的に言えば、けっこうそれはもうみんな知っていてなかなかこの状況だと書けない。ただ、岡崎は伝説化している部分もあるのだろうしそうした世代から別の読みがないわけでもないのだろう。
 ユキさんは、もしかすると、岡崎京子の世代か、とふと思い、岡崎京子が63年生まれであるのを思い出して、そんなハズはないなと思った。このあたりの、「そんなハズはないな」という感性はたぶんうまく伝達できそうにないだろうが。
 ここでユキさん論をぶつ気はないが、がというのは、ある読者層を想定して、岡崎より15年若い女性を想定してみたい。
 あまり言うのもなんだが私は岡崎の編集者と知り合いだったことがあるので、あの時代をある程度内側から思い出す。その思いを延長し、あの年を1995と仮にしてもいいかもしれない。すると、岡崎は32歳。そして15歳若い女性は、17歳だ。あの時代、17歳の少女に、すでにある種おばさん入っていた岡崎がどのように見えたか。たぶん、からっぽのスタイルに見えたのではないか。ニューアカがそうであったようにスカというか。あるいは今からはわかりづらいが、ニューアカのおニューさというのは70年代左翼オヤジのリバイバルでもあったし、その一つの馬鹿げた旗頭に吉本隆明糸井重里がいた。堤清二がぶいぶいとしていた。今思うと、いや思い出したくもない醜悪さがあるが、そこに自分の象がないわけでもない。
 岡崎をリメークさせている一人に安野モヨコがあるとしてもいいかもしれない。彼女は71年の生まれ。デビュー時の安野には岡崎が、しかし、スカではなく星のように見えたのかも知れない。何故? そのあたりは今の安野の、なんというか、べたな生活性みたいな感覚の逆転かもしれないと思う。曖昧な言い方になるが、安野モヨコは、いうまでもなく、オッサンですかシャーですか、みたいなべた性がある。
 話を端折ろう。岡崎は、ああいうスカなスタイリッシュな作品、そして結果的に出版文化の左翼オヤジ受けで行きながら、実は内面は今の安野のようなベタな生活性があった。彼女が結婚したとき、照れながら、「お相手は?」と聞かれて「シェーの得意な中国人(みたいな人)」と答えたとき、私は、こいつは思春期を脱していないべたな少女だったのではないかと思った。ある意味痛ましい思いがした。愛を信じるということがそのまま軽薄な左翼性を意味していた最後の時代でもあった。
 そして彼女に悲劇が襲った。