売春というのはちと違うか

 私はかなりたぶん痴漢とかいうのはしないというかそういう嗜好がない。が、夏場など女性と限らず骨格をよく見ているというのはある。ま、それもかなり変な話だが。
 で、売春と売春に似たもの、たとえば、性産業というのか、そこに差があるのか、あるいは段階があるのか、あるいはスペクトルがあるのか、私は知らない。たぶん、売春というのは古典的には性交を対価させるもので、岸田秀がいうように、育児をしない代価というふうな議論もありうるのかもしれない。
 ただ、これは男の性欲の側からすれば、ようするに性欲なるものの対価に見えるので、売春が古典的だろうがどのようなスペクトルがあろうが、けっこうどうでもいいものかもしれない。話をめんどくさくしているみたいだが。
 で。
 性交でなくても、たとえば、女性の身体を触る、というのでも、その場合、それが対価の商売たりえる。というとき、そこで、違法と商売という契機がある。単純な話、見知らぬ女性の身体を男性が触れば、それは違法。だが、女性の側がそれを商売としているなら、違法ではない。で、この延長には日本国家の場合、売春のように、女性がそれを商売としてもいけないという「公」の違法性というものがある。で、その「公」の次元や、あるいはモラル、あるいは性の尊厳とか倫理みたいのは、ここではちょっと捨象しておきたい。
 で。
 たとえば、女性の尻を触る。それに5000円という場合、そういう商売は日本では違法性なく成立する。で、これはマーケット・メカニズムが、たぶん、働く。例えば、尻なら5000円とか。で、かなり、たぶん、その尻なら10000円というふうなメカニズムもあるのだが、その価格メカニズムは、単純な話、その女性の言い値ではなく、やはり市場であり、べたに言えば、美醜のある種の客観性だろう。
 というあたりで、私はけっこう、いつも困惑する。いや、尻に触りたいとはあまり思わないのだが、女性の美醜がきちんとマーケットに反映されるというメカニズムっていうのは差別じゃないかというか、でも、実際には反映される。
 ということは、女性は自己を物化する意識をこのような契機で持ちうる、ということだが、どうもこのような物化の契機は、どうも、女性というもののへの欲望の本質的な構成を意味しているような気がする。なんというか、女性の性の主体性というのは、二義的な、あるいは、お芝居というか、なので、そのあたりに、実はかなりフェミニズム的な言説の本質的な欺瞞性があるか、あるいは、私が知らない高尚なフェミニズム議論があるのかもしれない。ただ、知らない。そして、知らないうちに、実はそういう社会に人は巻き込まれ、出口もない。
 で。
 もう一つ。5000円という女性の触り用尻というのは、いったい何の価格なのか? もちろん、男性の性幻想、欲望、だと、考えるわけだが、それは物ではない。物化されていそうだし、ある面ではされているのだが、尻の感触によって得る特定の女性の屈辱であり、屈辱の対価が5000円ということなのだろう。屈辱という言い方はつたないくて、男性の性意識の側としては、女性に快感を与えうるという性的な自我の高揚なのだろう。そして、この構造が本質的に屈辱なのは、女性の意志主体を侵入する身体の側から対価によって屈するという感覚の優位が前提になっていることだ。
 なぜ、そうなっているのだろうか?
 なんだが中二病患者のようだが、私はこのあたりの構造が実は未だにわからない。
 で。
 さらに一つ。5000円という女性の触り用尻を、男性である私が購入可能であるということが、実は性的な男性性を定義しているんじゃないか、つまり、マーケットを介して。うまく言えてないかもだが。
 5000円という女性の触り用尻ではなく、恋愛感情なり恋愛の合意があれば、それらは一見ゼロ円になるし、そこでは屈辱の対価ではないかのようになる。まあ、ないのかもしれない。問題はというかそういうことじゃなくて、性の欲望が対価として購入できる可能性として、そのように欲望が定義されているしマーケットが開かれているというのは、どういうことなんだろう?
 ここれで、恋愛というものが、どうも実存性を欺瞞にしているような気がする。
 欲望において、この女性なりこの男性なりという絶対性はあるのだろうか? 審級性や類似性のなかにかなりは解消される、つまり、一般商品として性の欲望の幻想は存在しているのではないか。たとえば、電車のなかであの女性の尻に触りたいなというとき、天使がやってきてで、それはべたに違法だよとささやく。悪魔がやってきてでもやっちゃえとささやくケースは捨象。で、べたに違法ではない別の類似の尻を買えばいいじゃないかというか、買える。そしてそれは多分に類似の尻でいい。いや、もっというと尻というより、やはり先の美醜のマーケットがそこにするっと入り込む。