まあ、続きというか

 どんなに悲しいことでも、今悲しいのでなければ(という言い方が曖昧だけど)、悲しかったのは過去だ。死別も、傷つけられたことも過去。
 そして、たいていは、悲しいというのは、過去を悲しむ、というか、記憶を悲しんでいる。もっと正確に言えば、不在を悲しむ。悲しみの対象は、無だ。
 しかし、実際の悲しむというのは感情のエネルギーだし、むしろ身体的を巻き込む情念に近いものだが、過去=不在を悲しんでいるとき、実は、こっそりと思考はトラップを嵌めているから悲しみが知覚される。
 思考は、過去をこっそり修正しようとして、それができなくて、感情を巻き込んで、悲しませている。
 それは過去なのだ、不在なのだ、どうやっても取り戻すことはできないのだと、いくら思考的に理解しても、たぶん、思考はそれでもこっそり過去を修復しようとする。未来において、達せられなかった、傷つけられた過去を、修復しようとする。
 (愛されたかった、とか。不当な屈辱だったとか。)
 というか、その不毛な回復の自動運動自体が、どうやら「私」というものの正体らしい。
 たぶん、「私」が悲しみが無意味なこと、修復できないこととしてそれを捨ててしまえば、「私」という意識の体制は壊れてしまうのだろう。
 あるいは私という自意識の核にあるのはその時間的な倒錯そののも、自動運動なのだろう。
 おそらくその「私」の崩壊を「私」は恐れているがゆえに、悲しみや過去の苦しみにすがりついているのだろう。
 事実は、過去は戻らないということ、死んだ人は生き返らないということ。失われた愛も、戻らない(ただ、それは修復できそうにも思えるが)。
 「私」は過去の氷のなかに閉じこめられていて、そこでもがいて、身体を振るわして、それで身体の反応を媒介して、生きているような気がしている、というトリックなのだろう。
 希望とか理想とかそういうものも実は、そうした不在の過去の「私」の欲望なのだろう。
 でも、その欲望がなければ「私」は惨めだし、たぶん、なんの支えもなく、今度は自分自身の存在すらも消してしまいたくなるものなのだろう。
 なぜ人の心がそのように出来ているのか。
 そのような心になにか人間の生存上のメリットがあるのだろうか?
 そして、この構図において救済がありえないのに、なにか救済や生の高揚を願う。あるいは、高揚だけを(ニーチェのように)価値とするしかない。でも、たぶん、その高揚も無意味なのだろう。
 まあ、括弧付けでない私は、なぜ傷を抱えて離さないのかといえば、それを失うことの恐怖のほうがはるかに強いからだろうし、身体は深く恐怖に呪縛されていて、抜けることができない。