失ったものと過去
半年くらい前だろうか、この日記で一回、二回、自分は過去を悲しんでいる、つまり、無を悲しんでいる、と書いたことがある。
過去は無だ。それはもうない。
でも、過去があって今の自分があるとも言えないわけでもないし、過去とは今のすべてだとも。
過去を悲しむというのはどういうことなのか、奇妙な倒錯感がある。過去を取り戻したい、やりなおしたい、過去のあの時点には希望があったに、といった。
まあ、それはそれ。
今日ぼんやりと、失ったもののことを思った。私は失ったものは忘れてしまうタイプの人らしく、具体的になにかを失ったということを考えたわけではない。あるいは、失われてしまったということだろうか。
思ったとおりに書くと、若い感覚はけっこう今でも実はあるが、若さというものはもうない。心や身体を若々しくということはある程度できないことではないのだろうが、若さというのは要するに時間だ。私はその時間を食い尽くしてしまったし、その食い尽くしてしまったという意味はそこで喜びと悲しみの果実を食ったということだ。もう食ってしまったのだから、なくなった、ということだ。いや、それが身になったというか。いや、得たものもきちんとあるのだ。
村上春樹のプールサイドという小説だったか(以前にもちょっと書いたが)35歳の男の心を描いていた。心というよりもっとふかくぞっとする小説なのだが。私の、今の文脈だと存在が失われていくという感覚だろうか。それらはすべてすんでしまって決定的であり、そして無ですらある。
それと、今日はなんとなく先駆的に、たぶん私の残された未来の時間の無に侵食されているようすも思った。
うまく言えないが、finalventとかガギだろみたいなハンドルで文章で登場して4年。長い期間でもあったし短い期間でもあった。よく生きていられたなとも思うし、最近は水泳なんかもしてまるで健康じゃねーの俺みたいにもなってきた。なんとなく脳天気にまだ生きていそうな気になってきたが、どこかで無理はあるだろう。