自分と他人の幸不幸とか

 ⇒お前が死ねば俺が幸せになる。 - 真性引き篭もり

お前が死ねば僕が幸せになる。かつて、そう思う人は大勢居た。今も大勢居る。眠たさで微睡んで自らの活力が落ちている時間帯などには毎日、死ね、死ね、のたうち回って死ね、と思っている。かつては、眠たくなくても思っていたので、幾分かは「お前が死ねば俺が幸せになる」と思う事も、減ったのだろう。それを『成果』と書き記す事には若干の抵抗があるけれど、それは正しく、引きこもった成果なのだろうと思う。けれども5年前を境にしてそれも急激に増えた。

 私は意識的には減ったかな。
 じゃそれ以前は多かったかというと、意識していなかったというか抑圧していたかな。
 ただ50過ぎまで生きていると、人の世の理不尽のマクロ的な公平性というか、こんな奴死ねよという人がのうのうと生きているのに、あの善人になぜこんな不幸がという、そういうなんかマイナスかけるマイナスみたいな公平さというのは思う。
 憎むだけこの世への執着はあるものだし、悔恨のために生きているということもあるもんだなと思う。
 この世界は私からしか見えないのに、どうして私はこの世界の端役なんだろうというのは、どうにもわからない問題だ。
 というか。
 ⇒はてなブックマーク - 100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。
 私は、私のいない世界というのをよく想像する。未生と死後。同じ不在なのに、違うように感じられるのはなぜなのか。まあ、私という問題があるわけだ。
 そもそも私がいない世界というのはなんなのか。
 なぜこの世界は私を生み出したのか? そのわりに、意味はないようだし。
 という不在に対して、憎しみはそれなりの意味を与える。
 というか、憎むことや攻撃することは、人に快感であるようにしくまれているんだろうな。
 さきのブクマの。

fromdusktildawn 一切は無意味である。だからこそ、あらゆる意味と価値を自分で創造することができる。あらゆる物事にそれ自体の意味があったら、物事の意味に自分自身が支配されてしまう。 2009/01/17

 の価値は肯定的なんだろうけど、否定的にも成立する命題でもあるだろう。
 逆に、実は、宇宙には意味があるのかもしれない、が、不可知というラッセル流に考えてもいいかもしれない。つまり、考えるだけムダというまいどのやつ。
 ただ、私はというと、こっそり、宇宙には意味があるのかもしれないと思っている。どっかに神のようなものがいるんじゃないかなとも疑っている(普通の人は逆みたいだけど)。
 とすると、「物事の意味に自分自身が支配されて」ではなく、自由とは、悪や裏切りを契機としながら、神のような何かに従うということになるのかも。
 しかし、そういうテロス(最終目的)な思考は、生そのものウアドクサならぬ、ウア(根源的)な選択があるようにも思う。
 まあ、結果論からいうと、だーらだら生きているとそれなりに思うことはある。人生というのは過ぎ去って取り返しがつかない最後で死んでしまうというか。でも、そうして取り返したい・生を引き換えにしたいという欲望を、なんとなく、根源的な悪のようにも思う。

hatest そんなことより、野球しようぜ! 2009/01/17

 ニーチェ的には野球が楽しかったら、シーシポスのような永遠を渇望するようになり、そして、この今現在を救う、と。まあ、それも、どうかな。