夏日になりそう

 昨日のエントリで「感覚A」と書いた。この問題を哲学がどう定式化しているのか最近その手の傾向に疎いのでなんだが。
 大森荘蔵はこの問題にあまり触れていなかったように思う。彼にとって、この世界が唯一、そしてその感覚は世界そのもとしていながら、言葉=世界だった。私たちが言葉をもって他者や世界と交わることをそのまま素朴に見ていた、あるいは見ようとしていた。なぜならそれが言語ゲームだし、そういうゲームを前提にみるしか世界=言葉は成立しない。しかし、やはり、ばっくり深淵は開いていたようにも思うので、大森をまた読み直すか。(たぶん、彼は「私」の「痛覚」、あるいは過去の「悲しみ」の記憶のような変奏をしていたかと思う。)
 感覚Aは、実は、クオリアと言い換えてもいいのかもしれない。が、ちょっと思い至らなかったのは、クオリアは、〜のクオリア、という一種の言葉の志向性がある、ないし、志向性の枠組みで問われる。
 確かに、言葉の意味の充足、というのは、感覚Aのようなものがクオリア的な問いのなかで問われるし、むしろ、それを脳の実体性と結びつけたくはなるだろう。
 だが、感覚Aは、言葉との齟齬を本質としている。
 たぶん、この問題は、普通に世界に異和感をもっている人、子供ならだれでも気が付くだろうが、感覚Aは、世界=言葉が、「私」を排除するところで成立する。そしてそれが世界の側に引かれるとき、いわゆる他者から狂気が現れる。逆にその内部にこもっていると狂気ではないにせよ、世界から隔離され、たぶん、そのままその個体は死滅するのだろうと思う。
 現実的には、感覚Aは狂気を回避し、世界と距離を置いた形で、私の「孤独」として存在する。
 ここで、飛躍だが、孤独とは、単純にいえば、性欲であり、おぱーいつかみたい中田氏したいーい、である。内臓の運動だし、それは存在が、存在基底が諸存在を介し、性を出現させる根源にある(言い方がキモイが)。
 なので、感覚Aの原型は、他者との乖離された身体の自己保護として生まれてくるのかもしれないし、まあ、いうまでもなく、感覚Aはぼんやりと、特定の他者とつながり、そこでセクト的な友愛のようなものを形成する。