satiとawarenessとself-remebering
上座部系の瞑想のsatiと、Kのawarenessと、Gのself-remeberingには、ある種似た系列がある。れいによって、Kのawarenessがもっとも難解だが、彼の場合は、awarenessとはpassive awarenessになっている。そして、命名を危険視するというかそれ自体がawarenessに含まれる。とりあえず、Kは除外する。
Gのself-remeberingはなにかの背景があるだろうし、上座部系の瞑想のsatiと関連するだろう。それが何か、いわゆる仏教なのかよくわからない。チベット系の瞑想についてはかなり複雑になっているがゾクチェン、というか、ナムカイ・ノルブあたりは同じようなことを言っているようには思える。
あまり実践的な示唆はさけたいのだが、prajunyaはsatiとの関連にある。
この場合、瞑想や意識の技法と捉えがちだし、そうとらえてもいいのかもしれない。
いくつか問題の軸がある。上座部系の瞑想のsatiのラベリング、それが身体のセンセーションに関連させるあたりは、Gのself-remeberingに近い。実際、Gのワークはそれが基本だったようだ。ようだというのもなんだが。
satiのラベリングにおいて面白いのは、言葉が他者として、自意識を暴露するようにawarenessのセンターを刺激する点にある。
たいていは、好悪の問題として出てくるようだ。そして好悪を抑圧するような形で、私たちの意識は形成されているので、よって、satiが有効になる。
Kは除外するといいながら、実際にKのティーチングを仔細に読むと、上座部系の瞑想のsatiに近いものはある。
シュタイナーはどう見ているか? 彼の場合、超感覚的世界は実在なので、こうしたとば口の迷いを危険視していたのではないか。