曇り

 明け方肌寒くなってきた。今日はこれで晴れるらしい。
 夢はあらかた忘れた。学校かなにかで、君、体重計ってとかいうシーンがある。61kgですよと答えると、64kgはあるだろうと言われる。計ると62kg。
 朝方、少し長めに瞑想した。いろいろ思うことがあった。断片化・矛盾、the observer/the observedなど見つめ、それから少しKの本を読み返し、思考と時間と欲望の関係を思った。Kは思考を時間の運動、何かになろうとすること・あろうとすることと見ている。が、この時間はある意味で、若い気持ちというか人生時間の想定によるのだろう。生涯賃金予想のように。自分のように人生後半も、しかも斜陽になるとあるべき時間は過去になるわけで、そこで時間の倒錯はある。というあたりで、朝食をとりながら、道元禅師のことを思い出し、まさしく花は哀惜に散り、草は棄嫌に生ふるのみなり。時間意識の問題であり、時間意識とは今ここの当為、当為ではないか仏道の運動の問題だなと思う。
 まあ、そんなふうに書くと空しいというか、衒学的な感じがする。しかし、断片化・矛盾のこの欲望の根幹には「死」がある。死はいわゆるそう思われているものではなく、自己了解と世界の断絶を意味しているのだろう。人が永生なり転生を思うように出来ているのは、いまこの世を受け入れがたいものとして己が成立するからだろう。よってニルバーナ・涅槃がその否定として現れるわけで、そういう理路だけ見るなら、欲望の否定こそが涅槃への道になる。ただ、欲望の否定というとき、なぜ仏教的なものが倒錯しやすいかといえば、否定の主体の自己が問われがちなることだ。禅における無でも、無を語る存在が暗黙に生まれやすい。己が無で、あるというとき、己はこっそりひそんでいる。禅の実践の当為が重視されるのはまさにその思念の己の解体の会得だからだろう、が、ここでも身体的な己に欺瞞されやすい。そう考えていけば迷路は深まる。
 欲望の否定は、まさに己を存立させる世界と、その死に限界付けられた挫折感のなかにある。というか、いわゆる諦観もまた、自分の栄光かというか欺瞞なのだろう。
 つらつら思うと、というかこう思うと、いつもそこに禅師がいるな。すべてわかっておられたのだろうな。