脳と阿頼耶識
⇒極東ブログ: [書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )
これが意外と哲学的な問題を持っているなと再読して思う。うまく表現できないのだが、ども脳というのは、知識・感情といったセンターではなく、存在そのものというか、外界と身体=内臓近く、に対して、時間的なフレームワークを与える調停機構というか生存スケジューラーとして存在しているようだ。
脳というのは感覚のなかに時間を導入するためのもので、いあゆるオカルト的ヘンテコ解釈じゃない、正統大乗仏教的な阿頼耶識なのだろう。つまり、sensation - rememberという枠組みなのだろう。
⇒阿頼耶識 - Wikipedia
唯識思想により立てられた心の深層部分の名称である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの識のうち第八番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。
感覚と時間の基礎意識主体なんだろう。
唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。
まあ、そういうことなんだが。
迷いというのは、時間と意識の根源性にある。知覚には時間性が含まれていないが、脳は長時間的に知覚のようなことをする。つまり、それが阿頼耶識、と言っていいだろう。
これは結局、ゼノン・パラドックスなんだろう。
龍樹が中論で、運動を否定する、否定してそれを「空」とするのは、実在と阿頼耶識の本質的な関係をいわば瞑想実践的に説いているからだろう。
別の言い方をすれば、ゼノン・パラドックスが阿頼耶識そのものの二面性だろうし、存在とはそのような時間意識のなかで出現すると考えれば、ネガティブには無明でもあろうし……となるだろう。
そして、空の知覚がprajunyaであるとすれば……ちょっと議論が粗いか。
まあ、巷に流行る脳物とは別に、そうした脳の本質みたいのは、かなり物理的な制約を受けているというあたりが、これはけっこう大変な問題かもなと思い直す。
余談だが。
いろいろ問題が見えつつあるのに俺の人生はあとそう長いわけでもない。そしてたぶん何にも到達しない。まあ、嘆いていてもしかたない。
追記
反論とかじゃないけど、ちと気になったので。
⇒hon-daniの日記
微分が成立するのは点時間の概念に依存している。つまり、そこにこそまさにゼノン・パラドックスが含まれている、と。