多読とか一日一冊とか

 インスパイア元⇒404 Blog Not Found:多読って何冊ぐらいから言うのか知らん
 小林秀雄が言ってたけど、ある著者の全集を端から端まで読め、と。その割に小林は全集を残さない奇妙な意地悪をしてくれたけど。というか、「感想」が読めなければ「本居宣長」が読めるわけねーのに、それだで読んで欲しいみたいな、こーゆー超高等テクニックの意地悪というのも、この歳になってみるとありがたいものだが。
 で、まあ、全集を端から読めはけっこういろいろと面白い。比較的コストパフォーマンスがいいのは、中島敦山月記だけじゃないというか、中島はどっちかというと西洋的な作家でもあった。

  1. 中島敦全集〈1〉
  2. 中島敦全集〈2〉
  3. 中島敦全集〈3〉

 で、この中島全集だが、速読な人なら3日か、一週間で読めるわけだけど、書架に残るわけですよ。一生残る。というか、正確にいうと、中島敦を受け入れるかだけが問われていると言える。
 つまり、知識じゃない。知識を得るための本はいくらだって読めるもんだし、その場合、知識の構成とかダブリなしとかそういうのが問われる。
 でも人が本を読むのは、知識だけではないわけで、そういうところで本の側から自分の生き様が問われているわけですよ。
 本を読むというのは、丁寧に生きるということ。というか、丁寧に生きるために丁寧に本を読むわけですよ。
 あと、聖書かな。
 聖書読まないと西欧文化のある決定的なところがわからない。ちょっと偉そうにいうと西洋人は聖書が読めるタイプの思考形式が苦手だろうとも思うがさておき。
 ほいで、聖書なんていうのは、読みづらいもんなんで、じゃ、これをパスっていいかというとまあ、そのあたりで読書っていうのの本質的な難しさがあるわけです。
 東洋でいうなら、千字文とか読んでないとどうしようもない。

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千字文: 小川 環樹,木田 章義
 千字文を読むうちに東洋というか中華世界の構造が見えてくる。というかその先に読むものは自ずと見えてくる。これが見えてこないと朝鮮とかも理解できない。
 とか言うとオメーは理解しているのかよとか言われそうだが。
 ⇒極東ブログ: 教養について