日経春秋 春秋(4/21)

 正直に白状すれば、迷惑メールの数は本物よりずっと多い。支配人や女優にアドレスを教えていないのに、なぜ届くのだろう。専門家に聞くと、うっかり閲覧すると自動的に情報を盗み出すサイトが多いそうだ。ひとたび流出すれば、カネの亡者が群がってくる。怪しいページを訪れた覚えはないのだが。いや、多分ない、と思うのだが。

 社内にこんなこと書いちゃだめですよと止める人はいなかったのだろうか。XSSでも個人のメールアドレスは組織的には取れませんてば(ゼロとは言わないけど)。

日経社説 根が深い食糧危機、国際協調で対応急げ

 日本も安閑としてはいられない。今回の危機は、食料自給率がカロリーベースで39%まで低下した日本にも食糧危機が起きうるという警鐘と考えるべきだ。生産性を高め、国際競争力のある農業にするための日本の改革の遅れが心配である。

 批判する気も萎えるのでクリップ程度。日本の農業はもっと付加価値の高いセクターに移行すること。

産経社説 【主張】社保庁処分者採用 これでは改革の名が泣く - MSN産経ニュース

 社会保険庁政府管掌健康保険部門を引き継ぎ、今年10月に発足する「全国健康保険協会」(協会けんぽ)に採用される社保庁職員1800人が内定した。
 このうち71人は、過去に年金記録ののぞき見や、国民年金保険料不正免除・猶予などで減給や戒告処分された人たちだ。訓告などの内部処分者317人を含めると、処分経験者が約2割を占めた。

 とりあえずクリップ。印象としては微罪・誤差の範囲のようにも思えるが。

読売社説 世界的食糧不足 決して対岸の火事ではない : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 放棄地を農地として維持できれば、食糧不足の時に主食のコメを生産でき、万一の備えになる。

 コメはかなり人を救うことができる。

朝日社説 芸術助成―社会に、懐の深さを : asahi.com:朝日新聞社説

 第2次大戦中、日本では第一線の画家たちが戦地に派遣されて戦争画を描いた。それらは当時称賛を集め、戦後は逆に批判の的となった。だが、いま改めて見ると、人間の真実や戦いの悲惨さを語りかけるものも多い。作品の受け止め方は時代によっても変わる。

 でもここで朝日は藤田の名前を出せなかった。
 ⇒戦争を背負った画家/藤田嗣治

cover
藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫): 近藤 史人

安倍政権より落ちたかな

 ⇒asahi.com:内閣支持25%、不支持60% 本社世論調査 - 政治

 朝日新聞社が19、20の両日実施した全国世論調査(電話)によると、福田内閣の支持率は25%で、3月29、30日の前回調査の31%を大きく下回り、内閣発足以来、最低だった。不支持率は60%(前回53%)。内閣支持率が20%台に落ち込んだのは、07年7月に自民党参院選で大敗した直後の調査で、安倍内閣の支持率が同内閣で最低の26%となって以来のことだ。

 他紙の調査ではぶれがあるようだけど。

◆75歳以上のお年寄りを対象にした後期高齢者医療制度が4月から始まりました。このことを評価しますか。評価しませんか。
 評価する 18 評価しない 71

 このあたりは国民はどうよと思うけど。もっとも朝日の質問も誘導的で、今回のドタバタは、基本的に政府側の説明の問題であって、制度の問題とはやや違う。そのあたりむしろ、朝日新聞を含めたマスメディアの側に問題の比重があるんだけど、こういう質問にしちゃうとそこが隠蔽されてしまう。

なんとなくだけど車は奥様アイテムのような

 ⇒痛いニュース(ノ∀`):若者の“車離れ”加速…ネット世代は、自動車に対する価値観違う
 郊外系のショッピングセンターとかいくと、なんとなくだけど車は奥様アイテムのような気がする。まあ、そういう場所だからとういことかもしれない。
 スポーツ・ジムなんかもそんな雰囲気。あとクッキングスタジオみたいのがいつも混んでいたり、子どもの遊び場系も混んでいたりする。
 そういえば、一度だけ、渋谷にあるこどもの城? とか行ったことがあるのだけど、セレブな奥様の佃煮状態だった。一緒に行った女性は、ここは愛子様もいらっしゃるのよと言っていたがまさかね。

問題の背景がよくわかんないけど

 ぶくまでみかけた⇒東浩紀の渦状言論: 信頼社会は不安社会よりいいのか?

つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。

 ここだけが重要っていうことではないんだけど、なんか基本がずれている感があるので。
 信頼というのは、個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別で、こちらは限定というより、公義のなかに信頼性が自然に含まれているものでないといけない。たとえば、あの裁判官は信頼できないというのは別段公言してもいいけど、裁判制度が信頼できないというのは違う。もしそうならそれを公義に信頼に足るものにしないと。(あと貨幣が信頼できるというも公義のうちかな。)
 で、信頼の社会というのは、実際には、そうした公義だけの問題ではないんだろうか。

不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。

 ここも発想の枠組みが違いすぎてよくわかんないのだけど、人間を人間扱いするというのは、むしろ国家の公義性に矛盾してしまうのではないだろうか。法の女神が目隠ししているように特定の誰かを見ないことが公義に含まれる。
 もっともこの人の「人間」は「動物」に対応しているのだけど、たぶん、この「動物」というのは「家畜」のことで、自然界の「動物」ではないのではないかな。ちょっと極言すると、むしろ公義というのは家畜的に見るということが含まれるというか、そこは自由の裁量によると思う。

大袈裟に言えばアウシュヴィッツの教訓はそこにつきるわけで、だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。

 ここもついてけない部分、アウシュヴィッツナショナリズムは別の問題だとしか私には思えない。
 それと、ここは私が間違っているかもしれないけど、ナショナリズムというのは、友愛原理でなければどこかで血の共同体の延長(単純な延長ではないけど)的な意味合いがある。単純な話、自分の子と他人の子への対応は違う。そこの区別は、どこかしら血族的な差異が出てきてしまうし、むしろ近代国家はそうした差異を公的には抑制するか、家族的なセクターに封じる必要がある。
 というあたりで、この方、東さんというのかな、たぶん娘さんなんだろうと思うけど、トップに写真を貼っているあたり、サブリミナル的にむしろナショナリズムを説いてしまっていることにならないのだろうか。誤解されそうなんで付け足すと、個人のそういう家族セクター的な愛情みたいを抑制しないとこうした分野を語ることにうっすらナショナリズム的欺瞞が入ると思う。

グルジェフのことちょっと

 コメントもろた⇒極東ブログ: 河合隼雄先生のこと

そう考えると、結局、グルジェフが教えていた神秘思想の多くは、後の時代にどういうふうに捻じ曲げられても、それほど有害ではないような、どうでもよいことがたくさん含まれているということなのだろうと思います。肝心なのはエッセンスです。人間の実存への真剣な関心です。

 ええ、私もそう思うようになりました。というか、年を取るにつれてベルゼブルがわかってきた部分があり、不思議な感じがします。あれを多くのグルジェフィアンは神話あるいは寓話として解釈し、それを信じてしまう。グルジェフはそういうバカなことすんなよという意図もあったのではないでしょうか。あれをベタに信じることはできません。しかも勝手に解釈もできません。では、というあたりから本当にグルジェフに向き合う部分はあるなと思います。
 最近、グルジェフについてはれいの三浦俊彦の本もだけど、ぼんやり考えることはあります。うまく言えませんが。

東浩紀さんへの返信

 ⇒東浩紀の渦状言論: finalvent氏への応答
 応答ありがとうございます。たぶん、背景の問題の根が深そうなのでごく簡単な返信を書きます。

ナショナリズムの歴史が全体主義の歴史と密接に繋がっていること、そしてその臨界点がナチスドイツの強制収容所であることは、思想史的にはよく言われていることなのではないでしょうか。そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。

 としてそういうこともわかっていないfinalventみたいなのがいるブログだと議論がしづらい(とか書くと皮肉みたいですがそれほどの意図はないです)……として。

世界は複雑であり、学問は専門領域に分割されていて、いちいち文脈を押さえないと議論に参加できないのではあまりに不自由で、したがってすべての反論可能性に開かれているブログはすばらしい場所です。しかし、やはりそれでも、コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。

 ということの一般論は了解するのですが。
 がというのは、ナチスドイツの本質を「ナチ」の語源から理解せよというのが前提というのは違うと思いますよ。
 ナチスドイツの本質は、ウィキペディアの記載で「ナチス」を検索しても、
 ⇒国家社会主義ドイツ労働者党 - Wikipedia

国家社会主義ドイツ労働者党
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ナチス から転送)

 というように転送されてしまうように、その前提は、いやウィキペディアが正しいというわけではなくてごく普通の理解の一例としてですが、「国家社会主義ドイツ労働者党」です。
 つまり、ナチスというのは、ナショナリズムの範型ではなく、国家社会主義のもつ一形態ですし、むしろそうすることで、スターリニズムなども同一の枠組みで見えてきますし、日本の戦前の状況も見えてくるでしょう。
 というわけで、「他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います」ということに比していうと(なんかこれも皮肉っぽくてすいません)、「他人の主張を批判するときにはあるていど普通の学問的成果を前提を読んでほしい」と思います。
 もうちょっとウィキペディア的に補足すると。

通称の由来:「ナチ(独: Nazi)」とは、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称であった。ドイツ社会民主党員は同じように Sozialisten を短縮してゾチ (Sozi) と蔑称されていた。ナチス (Nazis) は複数形である。ナチスの呼称は日本で戦前から使用されている(後述の「文献」参照)。現在は英米でも Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツでは現在は、Nazi よりも Nationalsozialismus の略号である NS を接頭語に例えば、NS-Deutschland のように造語される。

 であって、東さんの

そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。

 はちょっとずれていて、もとは、Nationalsozialismus、つまり、やはり、国家社会主義から来ています。
 で、私が思想界の常識を知らないだけかもしれないけど、問題は、国家社会主義がなぜアウシュヴィッツに結びつくかということではないでしょうか。つまり、東さんがおっしゃられるナショナリズムからアウシュヴィッツに結びつくという観点は基本が失当されているように私は思います。
 この事はたぶん、国家観に由来するとも思うのですが。
 国家がどのように成立するかというとき、ナチスのように血統的な民族の幻想を起点とする場合と、フランス革命以降の近代国家における友愛の原理によるものとは違いがあります。
 この点は、実際フランスのレジスタンスが愛国的なナショナリズムから起きたことでもごく単純に理解できることだと私は思います。もっとも、フランスの場合はパトリオティズム愛国主義)であって、ナショナリズム国家主義)ではないといった議論も可能かと思いますが、であれば、その差異は、やはり、血統的な民族幻想か友愛の原理の差異になるでしょう。そしてどのどちらもやはり国家を基軸とした運動です。
 ちょっと余談になりますが、実際の当時の(けっこう今でも)ドイツのコンテクストに戻すと、友愛の原理はプロテスタント文化とカトリック文化に分裂しておりそのグリュー(糊)の役割をユダヤ人文化が担っており、そのグリューを反ユダヤ主義によって切り離すことで友愛の原理が消失されたことが、友愛という国家原理が機能しなかったことではないかと私は考えています。むしろ、白バラなどもドイツ青年運動に起源をもつナショナルな運動と見ることもできるかと思います。とま、余談でしたが、このように個別の歴史事象には個別の背景もあります。
 あと、信頼の件について、「trust」とされるわけですが、そのあたり単純にわかりませんでした。trustは日本語の「信頼」の含みもですが、「委託物」の含みがあり、国家の原理では、本来個人が持つ権限を国家に委託する構図があります。つまり、国家はそれを委託されるがゆえの信頼という構図があり、この問題では、まずそうした国家の義が問われ、そして国家の義とは、市民を社会から保護することにあります。今回の文脈でいえば、社会のなかで信頼が度数的に問われていることで市民に差異が生じる場合、国家はまったくそれを無視して義を執行し、市民を社会から守ることが責務となります。
 

追記
 東さんのエントリの追記、読みました。泥沼化させる意図はありませんし、私としても、「あとは読者が判断するでしょう」でまったくかまいません。ちょっと困惑させることになって失礼なことをしてしまったなという反省はあるので、その点は申し訳なく思っています。
 ごく単純な確認というだけですが(議論を広げるというのではなく、相違点の確認というだけです)。

いずれにせよ、「アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話だ」というのがfinalventさんの主張で、その両者は深く関係しているというのがぼくの主張で、そここそが大事な相違点です。ほかは枝葉末節にすぎません。あとは読者が判断するでしょう。

 ええ、その相違はそのまま残ります。私は「アウシュヴィッツナショナリズムとは別の話だ」と考えています。広義にも別だし(ジェノサイドはナショナリズムから起きるとは限らない)、狭義でも(この点は文化差と白バラで少し言及したとおりです)。
 違った考えがあって私はまったくいいと思っています。
 お仕事頑張って下さい。

物騒な話題の雑感

 えっと、特にどうたらいう文脈でもないけど。
 「動物化」というのはわからないといえばわからない。勉強が足りませんなこりゃというのは率直に認めるけど、対立する概念が「人間」であるなら、そういう人間は、フーコーじゃないけど終焉したのではないか。
 近代が「人間」を作り出し、それが終焉して、管理化された動物的な存在が現れるということなのか、私としては、人間の終焉の後に出てきたのは、断片だと思う。知性や技術によって断片化した存在。あるいは経済によって断片化した存在。
 かつては、というかルネサンス的な人間では、そうした断片を恋愛とかまさに人文みたいなもの、あるいはドイツの教養小説ビルドゥングスロマン)みたいなもので統合された人間を描こうとした。でも、それはかなりもうダメなんじゃないか。
 では、人間は断片化されっぱなしなのか。そこはよくわからない。というのはこれは技術=ゲシュテルという存在の開示と関係していると思うからだ。単純な話、GoogleWikipediaみたいのは断片の非人間性をブーストすることで無駄な断片性をむしろ抑制して人間に人間的ななにかを返却しつつある。両義的なんだけどね。
 いずれにせよ、私は、動物化対人間、というような枠組みでは現在を見てない。
 あと、信頼というのは度数的になる場合、実はその度数によって、人間個体間が関数化されている。つまり、人間の信頼は計量的になってしまう。むしろ、人間を作り出した近代は国家=一般意志を介在させることでそこから個を救い出した(非計量的に)。で、これはかつての中世的な神と人とのλ(Λ)的な関係性でもあるというか、中世においてやλ的な関係ではなくて、ゲマインデと神の関係があった。その意味でλ関係はプロテスタンティズム的というか近代的なもので、絶対神というのが地上の教会から隔絶されたときに必然的に出てくるものだったのかもしれない。その意味で、友愛原理というのは、背景に絶対神的な信仰の共有があるというか、密儀をかならず持っている。
 近代におけるナショナルなものは、むしろ中世的な階層性あるいは重層性を包括するところで成立した。ドイツなんか実際には、プロテスタントの文化とカトリックの文化は別だし、国家が成立するにはその統合性が求められた。ところがそれがプ文化とカ文化を統合するというよりうまく機能せず、むしろその暗在的に統合を実質担っていたのがユダヤ文化だった。その意味で、近代にいたるドイツ文化というのは、実はユダヤ文化と言ってもいいくらいかもしれないが、そこで国家の統合性が逆に機能してそこを排除してしまったのではないか。
 話はずれる。
 アウシュビッツというのはジェノサイドなのだが、ジェノサイドという行為はけっこう西欧において頻繁に起きるし、中近東でも起きる。どうも元の概念は旧約聖書のようでもある。つまり、ユダヤ教キリスト教イスラム教にこれらは同じ根をもっているっぽい。このあたり、日本人はジェリコの戦いとかあまり普通に知らないっぽい。日本人キリスト教徒もあまり考えてないっぽいというか、信仰とのこの問題の関係がよくわかってないっぽい。
 とか思ったら、それなりにウィキペディアに記載があった。
 ⇒エリコ大虐殺 - Wikipedia

エリコ大虐殺(-だいぎゃくさつ)は紀元前1300年~1200年前後のパレスチナで行われたとされるカナーン人の大虐殺である。イスラエル人の指導者ヨシュア古代イスラエルの連合軍によってなされた。聖書によればエリコ市民は女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺されたという。

 史実ではない可能性は高いのだけど、このとき聖書の神はこの虐殺を命じている。このあたりの感覚が日本人にはわかりづらい。
 これは、あの忌まわしい言葉、ethnic cleansingが関係している。この現代語の背景についてはいろいろある
 ⇒民族浄化 - Wikipedia
 で、ここで日本人にわかりづらいのは、いずれにせよ、
 ⇒聖絶 - Wikipedia

この意味の聖絶は、通常は、イスラエルに敵対する異民族(通例は町単位)に対して、「彼らを聖絶する(一般の翻訳聖書では「滅ぼし尽くして神へ捧げる」)ので自分たちに力を与えて欲しい」というように神へ誓願する形で行なわれる(民数記21:1〜3)。聖絶対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされる。それ以外の剣でもって滅ぼせないものは火をもって焼き尽くされ、また、燃やすことの出来ない金銀財宝などは神殿の奉納倉へ納めて、「呪われた汚らわしきもの」として民衆の手からは隔離されなければならなかった。そして、聖絶のものを私物した者は、神の怒りに触れるものとして、罰として処刑された。

現代のキリスト教ユダヤ教では聖絶を表向き肯定する意見は比較的少数派である。しかし、神学上の解釈に於いては猶「この聖絶は神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とする意見が根強い。しかしこの聖絶という行いは現代風に言えば間違いなく「民族浄化」に他ならず、ユダヤ人のホロコーストを想起させざるを得ない行いである。聖書の無謬性を重んじるか、普遍的人道を重んじるかでクリスチャンやユダヤ教徒の解釈も割れている。

 このあたりの考えかたの歴史背景というのが根深くある。
 
追記
聖絶には「呪われた汚らわしきもの」というのを清めるという発想がある。血統を根絶する=その子孫を残さないようにする、というのが清めるに結びつく発想の原形からこうした諸宗教の発想が出てくるのであって、特定宗教が聖絶を作りだしというのではない(特定宗教が限定ではないんじゃないかということね)、というか、すでにあった俗習的な発想が宗教的な比喩の段階に登るというのが聖絶の意味だろうと思う。このあたりの発想は、たぶん、日本人には理解を絶しているだろうと思う(日本人の「清める」はみそぎとかね)。

そういえば思想というものに

 そういえば思想というものに関心がなくなってきた。哲学にもそうなので、一般的な老化の現象かもしれない。反面歴史には関心が深まるし。やばいかな俺。ま、どうでもいいけど。
 西洋人の思想っていうのは、なんか、オカマのぞっとするような悲しみみたいなものがないと無理なんじゃないかっていう気がする。
 そうじゃない思想というのもあるのだろうけど。
 どうも友愛原理というのはオカマのそれと原理的に同型なんじゃないないだろうか。つまり、国家原理というのは、オカマの問題なんじゃないか。
 レズビアンの問題と言い換えられるかよくわからないけど。
 たぶん、日本だと、70年代以降かな、60年代は思想も哲学も基本的にマルクス主義だったから。で、70年以降、おフランス思想みたいなのが入ってくる。その前に、戦前ベルクソンブームみたいなものもあるにはあるけど。
 おフランス思想というのは、単純にいうと田舎の思想で、ドイツの引け目のなかにいたわけで、基本的にはこれもマルクス主義の亜流みたいなものだったのだろう。亜流っていうのもなんだけど。ヘーゲルみたいなものがべたにフランスに入ったかわからないけどというかべたにコジェーブとかで入ったというべきでもあるのだけど、戦後のなかでどうもマルクス主義ちがうんでねが出てきて、そういうなかでハイデガーの人間論みたいなものが、対マルクス主義的な枠組みで出てきたのだろうけど、結局ハイデガーはむしろアンチヒューマンな哲学なのでその射程は最初から、いわゆるポストモダニズムというのは内包されていたのだろう。
 で、そういうの、日本の70年代以降は、ようするに中産階級の知的余剰という意味しかないし、80年代にはただのお遊びになってしまった。その後は、どうなんだろ。っていうか、根っこにあった問題意識みたいのは消えてしまったのだろう。
 っていうか、思想も、思想業界みたいなんじゃないかな。っていうか、そのあたり結局業界倫理みたいのが先に立つのではないかな。わからん。
 
追記 ナチズムとナショナリズム
 ⇒Nazism - Wikipedia, the free encyclopedia

Nationalism
Hitler founded the Nazi state upon a racially defined "German people" and principally rejected the idea of being bound by the limits of nationalism.
ヒトラーはナチ国家体制を人種的な”ドイツ民族”で定義し、基本的にナショナリズムの限界によって拘束される考えを拒否した。)