問題の背景がよくわかんないけど
ぶくまでみかけた⇒東浩紀の渦状言論: 信頼社会は不安社会よりいいのか?
つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。
ここだけが重要っていうことではないんだけど、なんか基本がずれている感があるので。
信頼というのは、個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別で、こちらは限定というより、公義のなかに信頼性が自然に含まれているものでないといけない。たとえば、あの裁判官は信頼できないというのは別段公言してもいいけど、裁判制度が信頼できないというのは違う。もしそうならそれを公義に信頼に足るものにしないと。(あと貨幣が信頼できるというも公義のうちかな。)
で、信頼の社会というのは、実際には、そうした公義だけの問題ではないんだろうか。
不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。
ここも発想の枠組みが違いすぎてよくわかんないのだけど、人間を人間扱いするというのは、むしろ国家の公義性に矛盾してしまうのではないだろうか。法の女神が目隠ししているように特定の誰かを見ないことが公義に含まれる。
もっともこの人の「人間」は「動物」に対応しているのだけど、たぶん、この「動物」というのは「家畜」のことで、自然界の「動物」ではないのではないかな。ちょっと極言すると、むしろ公義というのは家畜的に見るということが含まれるというか、そこは自由の裁量によると思う。
大袈裟に言えばアウシュヴィッツの教訓はそこにつきるわけで、だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。
ここもついてけない部分、アウシュヴィッツとナショナリズムは別の問題だとしか私には思えない。
それと、ここは私が間違っているかもしれないけど、ナショナリズムというのは、友愛原理でなければどこかで血の共同体の延長(単純な延長ではないけど)的な意味合いがある。単純な話、自分の子と他人の子への対応は違う。そこの区別は、どこかしら血族的な差異が出てきてしまうし、むしろ近代国家はそうした差異を公的には抑制するか、家族的なセクターに封じる必要がある。
というあたりで、この方、東さんというのかな、たぶん娘さんなんだろうと思うけど、トップに写真を貼っているあたり、サブリミナル的にむしろナショナリズムを説いてしまっていることにならないのだろうか。誤解されそうなんで付け足すと、個人のそういう家族セクター的な愛情みたいを抑制しないとこうした分野を語ることにうっすらナショナリズム的欺瞞が入ると思う。