産経社説 チェイニー氏来日 日米豪の戦略的な連携を

 この話が今一つわからない。

 それに関連して、懸念もある。チェイニー氏と久間章生防衛相との会談が予定されていないことだ。安全保障が主要テーマだというのに防衛相との会談がないのはおかしい。
 久間氏の一連の対米批判が原因であるのは間違いなく、改めて反省を求めたい。だが、防衛相との会談なしでは対外的に誤ったメッセージを与えかねない。両政府は再考が必要だ。

 たぶん間違ったメッセージという類の問題ではないのだろう。

読売社説 [穀物価格高騰]「構造変化を来した需給バランス」

 論調が違う気がする。大豆については、遺伝子組み換えとかで変な選別をしているからではないか。

 日本として、気になるのは「大豆ショック」の再来だろう。1973年に米国は、大豆の輸出を禁止した。おかげで、日本では豆腐や食用油生産が一部で止まる騒ぎとなった。

 安い価格で大量の穀物を輸入できた時代は終わりつつある。日本も飼料用作物の増産などを真剣に検討すべきだ。

 関連
 ⇒極東ブログ: このところの穀物高騰など
 ⇒極東ブログ: 世界市場の穀物価格は急騰するか?
 ⇒極東ブログ: 中国はもはや食料輸入国

朝日社説 自転車対策 歩道の解禁だけでは

 メモ、として。

 そこで警察庁は、新たなルールをつくる道交法改正案を今国会に出す方針を決めた。現実を反映させ、「車道を通行するのが危険な場合」と「13歳未満の子どもが乗る場合」には歩道を走ることができる、と定めようというのだ。
 自転車で車にはねられて死んだり、けがをしたりする人は年間15万人にのぼる。こんな現状を見れば、自転車の歩道通行を広げることはやむをえまい。

 今回の改正案で心配なのは、自転車が我が物顔で歩道に上がることだ。いまでも自転車と歩行者の衝突事故は1年に2500件も起きている。高齢化が進めば、車いすやつえの人がさらに増える。事故の危険性はいっそう高まる。

 ⇒極東ブログ: 自転車は歩道を走れと、では歩行者を何処を歩くべき
 ⇒極東ブログ: 自転車に課税しろ

観客席その2

 承前⇒finalventの日記 - 観客席

 話を戻して。
 池田氏がマンキューに戻ったところで、山形氏の応答がきっとあるでしょう。
 つうわけで、幕間。

 と、次幕を期待したいので、思わぬ展開。
 個人的には、池田氏のマンキューへの指摘あたりを考えみるかな、勉強がてらにという感じ。
 あと、あくまで観客席の一印象なんだけど。
 池田氏のコメント欄の⇒池田信夫 blog
 池田氏コメント。

そして、ここでも明らかなように、彼のいう「賃金水準」は、生産性の高いほうが高い賃金を得るかどうかという「個々の賃金」を問題にしているわけです。ところが私に突っ込まれると、2回目の記事では「いや全体の賃金のことだ」という話になる。Eメールでも、そう書いています。つまり、彼はもともと個々の賃金の話をしていたのに、それがおかしいと追及されたら、全体の賃金だという話に変えたわけです。
 
しかし、この「賃金水準」が全体の賃金だったら、ウェイトレスとプログラマの賃金の差なんて最初から問題にならないのであって、デカ文字の命題はそもそも意味がない。こういうふうに、肝心の概念の定義が事後的に二転三転するようでは、まともな議論は成立しません。

 という「最初から問題にならない」というあたりは、私たちが日常触れている経済学に期待する課題からは捨象されているかなと。
 池田氏バツの悪い言い方をすると⇒Gimの日記 - 池田信夫の勘違い内容がわかった
 話をシフトして。
 Unknown (本澤光威)というかたのコメント。

しかし、例えば産婦人科のお医者さんが過酷な労働で苦労されている問題について、本来市場の機能が有効に働けば「神の見えざる手」によって、問題が解決する方向に働くはずなのに、現実には産婦人科のお医者さんの給与が限界的生産性と乖離していてそういった機能は有効に働いておらず、問題を早急に解決する一つの手段としては、そういった視点がとても重要だと思います。

 こうした問題が私なんかには問題ですね。というかそういう議論に関心を持つ。(経済学プロパーな話なら先のマンキューの理解を先行したい。)
 あと。
 経済学的な理解では、たぶん、私が間違っているのでしょうけど、この方Unknown (Unknown:2007-02-20 02:19:53)さんなんかと似た印象を持つ。

 なんだかもうまったくわからなくなってきたんですが、結局、二人の争いってこんなコトなんじゃないですかね。
 まず、これは俺流勝手経済学ですが、輸入不可能な職種においては、「波及効果」みたいなやつがあるわけですよ。典型的なのがウェイトレス。これは、日本の労働市場を完全に開放しない限り、発展途上国よりは高給なわけです。そして、その原因は、日本経済全体の平均生産性が高いから。逆に言えば、輸入不可能な職種についている限り、グローバル化などどうでもよく、問題は日本社会全体の平均生産性。
 逆に、輸入可能なもの(Tシャツとか)の場合、どこの国でも同じ価格に収斂してしまう。よって、この場合、賃金を決めるのは、その人の生産性であって、その国全体の生産性ではない。
・・・ここまでが正しいとして、
 
輸入不可能なものに関するウェイトを極度に高くとって議論しているのが山形氏。
輸入可能なものに関するウェイトを極度に低くとって議論しているのが池田氏
 
それだけなんじゃないのかなぁ。
なにか、おいら、間違ってますか?

 まあ、ウェイトの比重より、モデルの問題だと思うけど。
 けど、「輸入可能なもの」の問題は大きい、大きいというのは、日本国内の各種の賃金体系に影響を与えているのでしょ、というあたり。
 以上、観客席でありました。

そういえば無礼な歩道を走る自転車について

 東京に戻ってとにかく驚いたし、怒り続けたのだが、早々に、俺ルールを2つを決めた。

  1. 子供が乗ってる自転車は許す。あるいは子供を乗せることが主要な自転車は許す。
  2. 老人のふらふらには、長生きしろよと祈って許す。

 最近はこれにもう1つルールが加わる。

  • 若い人は愚かなものだな、歳とって人生の辛酸を知れと呪って許す。

 ほいで、この3ルールを当てはめると、あらかた、私は人を許していることになった。
 例外は、無許可歩道を走るお巡りさんだが、まあ、これも第三ルールのうちになりつつある。
 かくして、私は、実際には、自転車にあまり気にしなくなったが……がというのは、その分、街を歩む子供を自転車から保護しなければと注意することが多くなった。

キャリートレードについてメモ

 気になるのであえて引用しますよ。
 ⇒asahi.com:キャリートレード、為替相場を動かす要因でない可能性=独連銀?-?ロイターニュース?-?ビジネス

キャリートレード為替相場を動かす要因でない可能性=独連銀
2007年02月20日06時35分
 [フランクフルト 19日 ロイター] ドイツ連邦銀行は、キャリートレードは必ずしも為替相場を動かす要因とはなっていない、との見解を示した。
 連銀は19日に公表した2月月報の中で、キャリートレードが相場に及ぼす影響は大方の見方ほど大きくない可能性があると指摘。「計量経済学モデルによれば、国際投資家の投機的活動によって為替相場が動かされるとの結論を導くことはできない」とした。

 気になったのは、キャリートレードなんて最初から問題ないじゃん論じゃなくて、こういうのもちゃんと検討して暫定結論を出すあたりの姿勢。

モテる男が好きな女についての与太話

 この歳こいてしまうとどうでもいい範疇なんだが。
 女を観察していて、少なからずが、モテる男が好きのようだ。
 そんなの当然でしょ、という言われそうだが、ちょっと違うのだ。別の言い方するとだな。
 女は、女にモテる男が好きだということにして行動を最適化しているっぽい。
 つうこと。
 株価みたいなもの。美人投票というか。なにが美人かとか関係なく。
 で、なので、行動は結果的に、「群れ」というかコミュニケーションというかそういうふうになっていて、そしてだな、どうも、これは、一種の防衛反応なんじゃないかと、私は思った。
 つまり。
 女は、女にモテる男が好きだということにして行動していると、女から攻撃を受けづらい。
 実際に個別の女インスタンスの男メソッドを見ていると、別にモテる男を選んでいない。というか、男との関係において、女は、どうも2つの戦略を取るっぽい。1、女にとってそのメート男は女群にとって貨幣的な存在、2、女にとってそのメートの男は女群から隔離しておくべき避難所。
 この2つの間にどんなダイナミックスがあるのかよくわからないのだが、なんとなくだが、女というのは女の戦場のなかで生きることが最適化されないと生きられないということがありそうな感じはする。
 ま、そんな感じ。
 昔思ったこと。
 今ではそんなことあまり考えない。うだうだ。

若きバートランド・ラッセルが自殺を思いとどまった理由

 私はバートランド・ラッセルが好きで、よく読んだ。英語の勉強をかねて読んだりもした。読みやすい英語かというとそうともいえるしそうでもないとも言える。文章のリズムが現代英語的ではない。この歳こいてみると文章のリズム感は小林秀雄なんかと似ているかもと思う云々。
 ほいで。
 若きバートランド・ラッセルが自殺を思いとどまった理由なのだが。
 数学の問題を解きたかった、
 ということらしい。
 ラッセルから学んだことはいろいろある。

cover
ラッセル幸福論: B. ラッセル,安藤 貞雄
 もあるが、訳はこっちのほうがよいかと思う。
 こっち⇒「 幸福論: 本: ラッセル」
 ラッセルをちと離れて思うのだが。
 子供の頃、小学校一年生くらいだったか、同級生の女の子が、「怖くておかしくて悲しい話って知っている?」というのだ。教えてもらた。
 それは、「鬼が出て、おならをして、死んでしまいました」というのだ。
 私は感動して、50歳になっても、思い出す。ナスラディンの英知かもしれない。
 人間というのは、なんとなく生まれておならをして死んでしまうようなものであり、しかも、考えてみれば、おならをして、というあたりのおかしさに支えられて生きているものだ。
 自殺を思いとどまるというのはいろんな話があるだろう略。
 ただ、現実的には、けっこうくだらない関心が人を救う。
 くだらないことでいいのだ。数学とか最適だ(数学がくだらなくないとか思っている香具師数学がわからなすぎ)。
 数学が苦手な人は……歴史がよいのではないか。
 人の愚かさを知るには、歴史最適だし、なにより、年寄り向きだ。
 自殺を延長し、だましだまし、寿命でしたというのは、けっこうよい生き方であると思う。つうわけで、死ぬなよ。