毎日社説 「一般教書演説」「危機乗り切る道筋が見えぬ」

 かつてゴルバチョフソ連共産党書記長は、ソ連が侵攻したアフガニスタン情勢を憂慮し、軍撤退を決断した。今の米国にとって、ソ連のアフガン侵攻は、ベトナム戦争と並んで人ごとではない。何もかも放り出して撤退すればいいというものではないが、確かな見通しがないまま米軍駐留が長引くのも歓迎できない。超党派で率直な議論を行い、米国として正しい決断をしてほしい。それこそが、イラク戦争を始めた国としての責任であり義務ではないか。

 なんだコレ? っていうかさて突っ込むとしたらどのあたり? っていう以前にこれ文章になっているのか。

朝日社説 ブッシュ演説 不都合な真実を見よ

 米国の行政と立法はねじれるのが常態なんでそんなこともしらないのか執筆者というのはさておき。

 しかし、増派の発表後、イラク人同士のテロも米兵への攻撃もますますひどくなっている。米議会では、与野党議員の間で増派に反対する決議案を通す動きが強まり、世論調査でも、増派への反対は6割を超えている。国民も議会も大統領に説得されるどころか、早期の撤退を求める声をさらに強めるだろう。

 このマターはこうしたお作文で滑る滑るの問題ではない。議会は増派の予算を潰すことができる。つまり、そうするかどうかその動向から見ていけばいい。朝日新聞は民主主義の仕組みというのがわかっているのだろうか。

 こうしたエネルギー政策は「気候変動という困難な課題への戦いを助ける」と大統領は述べた。世界最大の石油消費国である米国が脱石油で本格的に動き出せば、世界の省エネ技術や穀物からのエタノール生産に拍車がかかるだろう。
 しかし、それならなぜ大統領は6年前、二酸化炭素などを削減する京都議定書に背を向けたのかと問いたい。

 阿呆かと言いたい。地球温暖化については重要な問題だが、京都議定書地球温暖化に与える影響はごく限定されている。それに比して、穀物エタノール転換の推進は近未来的により深刻な問題をもたらす可能性がある。
 ⇒極東ブログ: このところの穀物高騰など
 京都議定書関連については。
 ⇒極東ブログ: 環境税(温暖化対策税)はしばらくやめにしたらどう
 ⇒極東ブログ: 結局、京都議定書ってどうよ

朝日社説 国会開幕 政治の信頼が問われる

 この国会でなすべきことは二つある。一つは政治資金をめぐる閣僚らの疑惑を解明し、けじめをつけることだ。もう一つは、政策面で与野党が主張をぶつけ合い、国民に選択肢をはっきり示すことである。
 急ぐべきは疑惑の解明だ。

 全然急ぐ必要はない。何十年もほったらかしにしていてなんら問題なかったし、なにより問題というなら違法性が問われなくてはならない。朝日はこの問題のどこに違法性があると認識しているのか?
 少子化や地方の荒廃に向かう日本で、国会の最大の課題がそんな問題じゃないだろ。

まあ野暮な話もなんだが

 ⇒はてなブックマーク - kom’s log - 戦争をしない国
 私はかなり違う意見のインド人と話したことがある。
 これにちょっと関係している。っていうかボース通りの銅像の下で日本人しっかりせいと説教された。
 これ⇒finalventの日記 - ボースを思う日本人のこうした活動を再評価してこそ日印友好だと思うのだが
 他にも。
 えっと日本人がびっくりするような意見をギリシア人から聞いたこともある。
 トルコ人からもえっとこっちが引くような意見を聞いたこともある。
 マレー人やインドネシア人からどんびきの意見を聞いたこともある。
 台湾人からは日本精神を説教され略。
 ま、いろいろある。
 韓国人の本音はっていうかま本音かな聞くと泣けてしまうことがある。いろいろあんだろうけど。
 中国人の本音はこれもいろいろ。どんと引くような意見もある。
 べたには書かない。
 戦争放棄については。
 ちとふれた⇒極東ブログ: 終戦記念日の誤解
 っていうか、こうした規定は基本的に弱小国というか別の意味合いがある。
 日本からわかりやすいのはイタリアかもしれない。戦争放棄しているけど世界への平和貢献はと云々。
 まあ、ざっくりいうと、こうした問題を個人体験のケースで議論しているのは、「 ダメな議論―論理思考で見抜く: 本: 飯田 泰之」の典型みたいになってしまう。
 とか書くと批判しているかみたいに聞こえるし、まあ、変なとばっちりが来るかもしれないので、補足しておきますが、あのですね、みなさん、世界の国の人の本音をいろいろご自身で聞いてみるといいですよ。スゲー意見が聞けたりしますよ。っていうか聞くんじゃなかったみたいなこともありますよ。
 でもそれをべたにブログなんかに、書くのはどうかと思う略。増田でも書けだけど書いたら俺だってばれそうなんで書かないですよ。ここは冗談。
 っていうか、日本って平和志向なんだうんうんみたいな美しい話しかブログに書けないもんなのよってばさ。

日本人はマイノリティか?

 微妙。
 べたなものを見るとあたりまえなんだけど。
 日本人があまり意識してない問題かもだけど、一つのかなりレギュレートされた母国語を一億人がしゃべっているなんて民族は、他にありませんぜ。
 しかもその一億人がべたべたにメディアにプラグされてる。
 英語の人口は大きいというのはあるけど、あれは基本的に言語の人口っていうならコミュニケーション手段であって実際の帰属意識は州のマイカントリーっていうのか、理念としてのフィデラルってやつなので、ちょっと日本人と日本語とちとずれている。
 中国語の人口も大きいし、これから英語っぽくなるかもだけど、基本的に普通語っていうのは中国人とって外国語。
 インドに至っては言語がもうもう。
 ドイツ語、フランス語はまどうでもいいでしょっていうくらい。
 スペイン語ポルトガル人口も多いけど、けどみたいな。
 話戻すと、日本語人口っていうのはどうみても、それだけでやめてくれっていくらいな世界情報への圧力になっている。
 インターネットの世界は英語が基本で日本のそれは分離されている……それは事実だけど逆からみると、わけのわかんない変な巨大な言語がずでんとインターネットに居座っているとしか他から見えないし、どうもあいつらの文化ってクールじゃんですよ。
 日本語の出版文化も不気味にでかいし、それに伝統まである。
 江戸時代にベストセラーみたいな出版文化を持っていたわけで。しかもかなり大衆レベルに。
 とか書くと。
 日本礼賛とか日本はすごい論とかに誤解されるけど。
 そうじゃなくて、日本人は日本語話すマイノリティとか日本が考えていても、傍からはそうは見えないですよ。
 総人口に対しての文盲率が以上に低すぎ、日本。

あなたは自分の人生の経営者ではありません。子供たちもいずれ自分の人生の荒波に消えていきます。

 って感じかな、俺はね。
 私は人間の人生というのは失敗するようにできているのだと確信している。
 なので、成功を実感しつつ、ポジティブに生きている人間というのがよくわからない。ボルネオには私の知らない生物がいるのと同じくらい。
 というあたりで、考えが止まる。
 まあ、いいや、私は私なり考えてみよう。
 生きていると困難にぶつかる。半分は偶然だ。しかし、その偶然が、げ、それはないでしょっていうくらい悲惨なことがあるのが、人生の不可解の一つだ。ここから得られる一般論は、人生というのは大方運命だな、と。
 死んだ人は帰らない。
 失われた愛は戻らない。
 がっつんと不運に会ったら人生は終わるまでの不良債権処理みたいなもん。
 で、あと半分だが。
 自分が生きようと目論見ると、困難になる。これは多分に、自分は自分の心に嘘はつけないなというところに端を発している。もちろん、自分の心に嘘をつけないやつなんか社会に生きていけるわけはないのではないかと私は思うので、しかたないなと思う。
 問題は自分の心に嘘をつくと、どうやら発狂するか病気になる。病気はすべてそれで起きるわけではないがどうもそういうからくりはある。ここでの選択は、死ぬか嘘をつくのをやめて適当なところで諦めて生きるか。諦めて生きるでしょう、ピンポーン。
 それにしても、なぜ自分の心に嘘をつかずに生きようとすると、人生は困難になるのかというあたりで、いったい、この自分の心にある嘘っていう感覚はなんなのだと奇っ怪に思う。
 良心とかだったらいいのだけど、必ずしもそうでもないし、けっこうな部分が自己合理化っていうか自己正当化というか抑圧というか言い訳みたいなもののようでもある。例えば、不幸な運命というのは、自堕落の言い訳になるし、心がそのあたりで妥協すると楽だしね、みたいな。
 あるいは人生の失敗とか不幸とかはまさにそうした自滅的な無意識が望んで実現したのか、と。そういう面もありそうだ。
 ただ、そこをうまく乗り越えられるものでもないし、そうして過ぎていくのが人生なんだから、夕飯は今日は麻婆豆腐にしよう、みたいな。
 いずれにしても、なんとも私の心の嘘の感覚みたいなものは残る。というか、結局、日々それに向き合っているしかないし、そうこうしている内に人生は決まってくる。動けなくなる。社会的に失格。
 人生は失敗するようにできているとかいうより、成功することを心のどっかで望んでいない。というか、その成功が自分にうまく確信できていない。嘘だなとか思っている。
 この感覚は四歳くらいからある。というかそれが、私という感覚なのだろうとしか言えない。
 この感覚だけを持ち、運がよければ私は20年くらい生きるかもしれない。ま、相当にラッキーなら。
 それだけ運があるといいなと思うので、ひどい鬱の時でも諦めるというか、諦めのコントロールのせいか病的な鬱にはならない。発狂もしない。
 結論は特にない。
 私という存在はこの宇宙にとっては無とそれほど違いがない。
 自分には嘘はつけないなという感覚は、どうやら私を定義づけているようでもあり、相当にやっかいなものだ。
 たとえば、ああ自分はこの人を愛してないなと思ったらやはりつらいだろう、というあたりで、人との関係というものができてくる。
 話はずっこけるが、私は人生の失敗者なので、過ぎ去った、取り返しの付かない、希望の失われた日々に、安心することがある。ああ、やっぱりダメだったな。でも、もうダメで結論でたしな、と。麻婆豆腐は丸美屋にするかなとか。
 あと、この先言うとちょっとアレなんだけど、自分の心に向き合って生きているというのはどうも何かと向き合っているような感じがする。これを神とかいうとちょっと違う。たとえば道端に花が咲いている。おお、きれいな花だなというとき、私はその花と一緒に生きている感じがする。なんというか大地と大空と生きているような感じがする、と、言葉でいうとなんか偉そうなので、ちょっと違う。
 まあ、誰に伝えるものでもない。
 ただ、なんというか命の不思議というかなにかがあるな。それはすごく当たり前ですごく神秘で、そのためになにか嘘をつけないというような何かだが、どうも言葉にすると胡散臭いというか宗教みたいになるな。

祖先というか

 人間は自分に都合よく世界を意味づけるから子供の世代とか未来とか考えがちだが、まあ、それはそういうもんとして。
 私は自分の祖先とか思うことが多い。先祖とかそういうのと違う。血族とかでもない。
 自分の父母祖父母くらいはわかる。
 曾祖父母になるとちと曖昧。
 そのあたりに明治時代がありそう。
 もっとも昔のことだからそれほど流動性はない。
 が、江戸時代中期ですら、私の肉体に至る遺伝子のカクテルの元は128人くらいになるのではないか。その128人ってどんな男女だったのだろうかとは思う。
 彼らの肉体のパーツを受け継いでいるのだろうなと。
 話が少しこけるのだが、昔から、私は、あれこの人と私は同じあの遺伝子を共有しているなという奇妙な感覚がある。似ているなという推測から来ているのだろうが、まあ、あれまあ同じ祖先という感覚である。それはさておき。
 で、128人はどういう生き様をしておセックスをしてどうくたばったのだろう。
 どのくらいがフツーの人生と言えたのだろう。
 よくわからない。
 時代の中に消えている。
 遠い爺さんの若い時代にタイムマシンで声をかけることができたら、ああここに1/128がなんとなくいるよと言いたい感じもするし、爺さんからは、そのチンコが儂のほこりじゃてみたいにエールが来るかもしれない。
 わからない。
 彼らは消えた。
 私も消える。
 時間のなかに消える。
 その時間というのは、64個のちんこと64個のまんこという感じがしないでもない。
 あるいは、128のちんこと128のまんこである。
 あるいは、256のちんこと256のまんこである。
 あるいは、略。

心の中の暗い核

 まんこの上の赤い核だったらいいのに、失礼。
 心の中に、どうも薄暗い、堅い、痛い、悲しみのような核のようなものがある。
 なんなんでしょねと思う。
 思い続けて50年でもある。
 わからない。
 私という感覚のコアでもあるようだし、なんかの欺瞞でもあるようだ。
 というか、なんかの欺瞞というか隠蔽かもなとも思う。
 精神分析学的に言えば、それに直面したくないトラウマというか、そのためにその防衛のためにできたのが私という自我というか。
 まあ、なんというか、率直に言えば、こんなことを書いている中年のおっさんというのはそーとーに痛いわけですよ。2ちゃんねるに晒してあざ笑えるネタになるくらい痛いねぇこのオッサンである。
 でもな、それが、事実ってもんだしな。
 そしてそんなのあざ笑っているやつって、ま、ずばり言いましょう、人間の良心ってものがないよ。
 ネタはさておき。
 その核みたいのは、サイエントロジーとかがいうエングラムみたいなもんかなと思うし、そこから自由になることが人生かという感じもしないでもない。
 そしてそこの解放にどうしても嵌ってしまって、人生無駄に過ごしました、おわり、というの人も多い。
 どうせ人生は無駄なんだから、その核と格闘して無駄に終わってもそれはそれで自由じゃんとも思う。
 そこから抜け出せたら幸せになれるという人は多いと思う。
 というあたりで、少し考えがずれる。
 この核の感覚があるだけ覚醒していて、大衆っていうのはむしろそれを埋め込まれて無自覚なんじゃないか。無自覚ってなんだか無痔核みたいだな。
 ま、そうかもしれない。
 でも、私は、そういう多数の人はとりあえずどうでもいいや。
 で、問題は私はこの核から解放されうるのか。あるいはそーゆーもんじゃないのか。
 そこが依然、皆目、わからない。
 ただ、この歳こいてみると、人の不幸とか悲しみというのは、なんか神の摂理だかなんだかわからないけど、この世界に仏の種を撒くような部分というのもありそうには思える。
 悲しみを知らなければ愛が知覚できない、っつうもんでもないだろうが、ある悲しみの強度のようなものが愛の強度に関係しているようではあるし、ニーチェが正午といったような生のあるいは性の最大の高揚感のようなものとその核は関係するだろうし、その正午を迎えた人間は永遠が回帰するのを欲するかもしれない。
 ま、そこまでチンコ立ちまくりという思想で解決するわけでもないだろうが。
 まあ、私という感覚は欺瞞なのか。あるいはそれはただそーゆーもんなのか。
 どっちかというと。
 そーゆーもんかなとは思うが、こっそり孤独に反省はするのだ。
 痛いなぁ俺。
 増田に書くべきだったな。嘘ぴょーん。
 
メガマック食べたいぞ - 雄山 - はてなセリフ

え?! 体罰復活ってこと?

 BBC読んでてべっくらこいた。
 ⇒BBC NEWS | Asia-Pacific | Japan schools to rethink beating

Japanese schools should rethink their decades-old ban on corporal punishment, a government-appointed panel has urged.

Elsewhere in the region, China and Taiwan have made corporal punishment illegal in the school system. Globally, 109 countries have banned punishing children by beating them.

 そうなのか。
 ⇒教育再生会議、「体罰」の定義見直し…政府に要望へ : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 政府の教育再生会議野依良治座長)は、学校教育法で禁じられている「体罰」について、政府が過去に示した定義の見直しを求める方針を固めた。
 来週にもまとめる第1次報告に盛り込み、安倍首相に提出する予定だ。報告には大学の9月入学導入の促進や高校での奉仕活動必修化も明記する。

 ⇒再生会議1次報告、脱ゆとり教育を提言 首相、3法案提出指示 : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 第1次報告は、義務教育を中心とした初等中等教育に絞ったものだ。「ゆとり教育」の見直しなど「7つの提言」と、今年度中の体罰の基準の見直しなどを求めた「4つの緊急対応」で構成されている。

 そのあたりが日本で注目されてなげなのは何故?
 それとも注目されている?