心の中の暗い核
まんこの上の赤い核だったらいいのに、失礼。
心の中に、どうも薄暗い、堅い、痛い、悲しみのような核のようなものがある。
なんなんでしょねと思う。
思い続けて50年でもある。
わからない。
私という感覚のコアでもあるようだし、なんかの欺瞞でもあるようだ。
というか、なんかの欺瞞というか隠蔽かもなとも思う。
精神分析学的に言えば、それに直面したくないトラウマというか、そのためにその防衛のためにできたのが私という自我というか。
まあ、なんというか、率直に言えば、こんなことを書いている中年のおっさんというのはそーとーに痛いわけですよ。2ちゃんねるに晒してあざ笑えるネタになるくらい痛いねぇこのオッサンである。
でもな、それが、事実ってもんだしな。
そしてそんなのあざ笑っているやつって、ま、ずばり言いましょう、人間の良心ってものがないよ。
ネタはさておき。
その核みたいのは、サイエントロジーとかがいうエングラムみたいなもんかなと思うし、そこから自由になることが人生かという感じもしないでもない。
そしてそこの解放にどうしても嵌ってしまって、人生無駄に過ごしました、おわり、というの人も多い。
どうせ人生は無駄なんだから、その核と格闘して無駄に終わってもそれはそれで自由じゃんとも思う。
そこから抜け出せたら幸せになれるという人は多いと思う。
というあたりで、少し考えがずれる。
この核の感覚があるだけ覚醒していて、大衆っていうのはむしろそれを埋め込まれて無自覚なんじゃないか。無自覚ってなんだか無痔核みたいだな。
ま、そうかもしれない。
でも、私は、そういう多数の人はとりあえずどうでもいいや。
で、問題は私はこの核から解放されうるのか。あるいはそーゆーもんじゃないのか。
そこが依然、皆目、わからない。
ただ、この歳こいてみると、人の不幸とか悲しみというのは、なんか神の摂理だかなんだかわからないけど、この世界に仏の種を撒くような部分というのもありそうには思える。
悲しみを知らなければ愛が知覚できない、っつうもんでもないだろうが、ある悲しみの強度のようなものが愛の強度に関係しているようではあるし、ニーチェが正午といったような生のあるいは性の最大の高揚感のようなものとその核は関係するだろうし、その正午を迎えた人間は永遠が回帰するのを欲するかもしれない。
ま、そこまでチンコ立ちまくりという思想で解決するわけでもないだろうが。
まあ、私という感覚は欺瞞なのか。あるいはそれはただそーゆーもんなのか。
どっちかというと。
そーゆーもんかなとは思うが、こっそり孤独に反省はするのだ。
痛いなぁ俺。
増田に書くべきだったな。嘘ぴょーん。