あなたは自分の人生の経営者ではありません。子供たちもいずれ自分の人生の荒波に消えていきます。

 って感じかな、俺はね。
 私は人間の人生というのは失敗するようにできているのだと確信している。
 なので、成功を実感しつつ、ポジティブに生きている人間というのがよくわからない。ボルネオには私の知らない生物がいるのと同じくらい。
 というあたりで、考えが止まる。
 まあ、いいや、私は私なり考えてみよう。
 生きていると困難にぶつかる。半分は偶然だ。しかし、その偶然が、げ、それはないでしょっていうくらい悲惨なことがあるのが、人生の不可解の一つだ。ここから得られる一般論は、人生というのは大方運命だな、と。
 死んだ人は帰らない。
 失われた愛は戻らない。
 がっつんと不運に会ったら人生は終わるまでの不良債権処理みたいなもん。
 で、あと半分だが。
 自分が生きようと目論見ると、困難になる。これは多分に、自分は自分の心に嘘はつけないなというところに端を発している。もちろん、自分の心に嘘をつけないやつなんか社会に生きていけるわけはないのではないかと私は思うので、しかたないなと思う。
 問題は自分の心に嘘をつくと、どうやら発狂するか病気になる。病気はすべてそれで起きるわけではないがどうもそういうからくりはある。ここでの選択は、死ぬか嘘をつくのをやめて適当なところで諦めて生きるか。諦めて生きるでしょう、ピンポーン。
 それにしても、なぜ自分の心に嘘をつかずに生きようとすると、人生は困難になるのかというあたりで、いったい、この自分の心にある嘘っていう感覚はなんなのだと奇っ怪に思う。
 良心とかだったらいいのだけど、必ずしもそうでもないし、けっこうな部分が自己合理化っていうか自己正当化というか抑圧というか言い訳みたいなもののようでもある。例えば、不幸な運命というのは、自堕落の言い訳になるし、心がそのあたりで妥協すると楽だしね、みたいな。
 あるいは人生の失敗とか不幸とかはまさにそうした自滅的な無意識が望んで実現したのか、と。そういう面もありそうだ。
 ただ、そこをうまく乗り越えられるものでもないし、そうして過ぎていくのが人生なんだから、夕飯は今日は麻婆豆腐にしよう、みたいな。
 いずれにしても、なんとも私の心の嘘の感覚みたいなものは残る。というか、結局、日々それに向き合っているしかないし、そうこうしている内に人生は決まってくる。動けなくなる。社会的に失格。
 人生は失敗するようにできているとかいうより、成功することを心のどっかで望んでいない。というか、その成功が自分にうまく確信できていない。嘘だなとか思っている。
 この感覚は四歳くらいからある。というかそれが、私という感覚なのだろうとしか言えない。
 この感覚だけを持ち、運がよければ私は20年くらい生きるかもしれない。ま、相当にラッキーなら。
 それだけ運があるといいなと思うので、ひどい鬱の時でも諦めるというか、諦めのコントロールのせいか病的な鬱にはならない。発狂もしない。
 結論は特にない。
 私という存在はこの宇宙にとっては無とそれほど違いがない。
 自分には嘘はつけないなという感覚は、どうやら私を定義づけているようでもあり、相当にやっかいなものだ。
 たとえば、ああ自分はこの人を愛してないなと思ったらやはりつらいだろう、というあたりで、人との関係というものができてくる。
 話はずっこけるが、私は人生の失敗者なので、過ぎ去った、取り返しの付かない、希望の失われた日々に、安心することがある。ああ、やっぱりダメだったな。でも、もうダメで結論でたしな、と。麻婆豆腐は丸美屋にするかなとか。
 あと、この先言うとちょっとアレなんだけど、自分の心に向き合って生きているというのはどうも何かと向き合っているような感じがする。これを神とかいうとちょっと違う。たとえば道端に花が咲いている。おお、きれいな花だなというとき、私はその花と一緒に生きている感じがする。なんというか大地と大空と生きているような感じがする、と、言葉でいうとなんか偉そうなので、ちょっと違う。
 まあ、誰に伝えるものでもない。
 ただ、なんというか命の不思議というかなにかがあるな。それはすごく当たり前ですごく神秘で、そのためになにか嘘をつけないというような何かだが、どうも言葉にすると胡散臭いというか宗教みたいになるな。