日経 NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース

ゴーと呼ばれる日本の丹前に似た民族衣装とともに、ブータンはGNH(国民総幸福)という指標を国政の施策に掲げる国として知られる。経済成長による物質的な繁栄だけに頼らず、伝統文化や自然環境を大切にして国民の幸福感を求めようと近代化へ向かう1970年代、21歳の前国王が提唱したという。

 ⇒日刊ベリタ : 記事 : 帰国求めるネパール系難民 ブータンの「民族浄化」 桃源郷のもうひとつの顔 ダルマ・アディカリ

毎日社説 世界情勢 共通の土俵で協調を広げよ

 今年も地球は戦禍に苦しんでいる。イラクアフガニスタンの流血は収拾の見通しがつかないままだ。内戦のソマリアからイスラム原理主義勢力を駆逐したエチオピアは「対テロ戦争」を軍事介入の理由にあげ正当化を図った。対テロ戦争は米国だけの専売特許ではなくなった。だが、対テロ戦争と名づけさえすれば、常に正しい戦争と認定される免罪符ではないことにも気をつけたい。

 ソマリアエチオピアが言及されているだけでスーダンへの言及がない。また他アフリカへの言及はない。

 10年間にわたり約1万3000人の死者が出た内戦が収拾に向かう国がある。ネパール政府と武装勢力ネパール共産党毛沢東主義派」は昨年11月、包括和平合意に調印した。毛派は武器を置き、6月に予定される制憲議会選挙に参加する。他者との違いよりも同じ点に着目し、共通の土俵を広げる。ネパールがその成功例になってほしい。そうした作業の積み重ねを世界に広げ、和解と国際協調につなげる年にしたい。

 ネパールの問題はまだこう言える段階ではないだろう。
 こういう問題もある⇒インド北東部、移住農民ら40人以上を就寝中射殺 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 アッサムのケースは毛沢東主義とは直結していないが、あの地域全体に不穏な状況はある。
 参考⇒海外安全ホームページ
 というか、インド内には毛沢東主義がある。

朝日社説 福祉の明日 「相扶共済」を保つには

 一瞬ひねったネタかなとも思った。

 こうした庶民の助け合いにならい、政府も医療保険を制度化して、職場や地域に広げていった。太平洋戦争の開始後の42年には、勤労意欲を高め、戦費を調達する目的で労働者の年金も始まった。

 その背景を知らないインテリが日本にいるとは思えないのだが。

朝日社説 野宿者襲撃 社会のまなざしが透ける

 こうした問題は一般的な要因と個別の要因がある。ケースが一例なのでまず個別要因がわからないとなんとも言えないし、この社説はそこが欠落しているように思う。そして論理の組み立てとしては個別ケースから一般論への飛躍がある。

ぶくま的図書館の話題だが

 現実の地方の図書館、つまり、本当に地方の公共図書館がどうなっているか、私は知っているので、あまり議論がピンとこない。まあ、議論をフォローしてないからだろう。
 沖縄にいたとき、地域の図書館に本を寄贈した。ゴミ本も多いのでなんだが。いずれにせよ、寄贈本や中古本を精力的に収集するとよいのではないかと思った。あと、地域の図書館はその地域にしかない情報を収集するセンターであってほしい。
 沖縄にいたとき、僻地っぽい村の村史をめくっていろいろ知るところがあった。古老に問えばもっと歴史が出てくるだろうと思った。
 あと、話が違うけど、日本の大学の図書館って、自由書架ではないのでは。

イスラエルによるイラン核施設攻撃ニュース

 発信源⇒Israel readies forces for strike on nuclear Iran - Sunday Times - Times Online
 日本⇒イラン核施設、イスラエルが戦術核で攻撃計画?…英紙 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 Time記事⇒Israel Denies Iran Nuke Attack Plan -- Sunday, Jan. 07, 2007 -- Page 1 -- TIME
 関連⇒極東ブログ: イラン核問題メモ

 と考えると、米国がイラクみたいに……と考える向きも多いだろうけど、それはないんじゃないか。米国が恐れているのはむしろイスラエルだろう。一九八一年、イスラエルはフランスがイラクに提供したオシラ原子力施設をある日突然二人黙るのぉ♪じゃないけど空爆した。あんなのありかよと私は衝撃を受けたことを覚えている。それでも当時はまだのんきな時代だったわけで、現在でそれをやるとろくでもない副作用が出る。
 でもイスラエルという国はそういう事態になればやる。というか、イスラエルと米国の一部をどう暴発させないかという問題でもあるのだろう。

批判とか論争とか罵倒とか

 あまりする気はない。私はもう枯れてしまったのと、なんというかそういうものの地獄に疲れたかなというのはある。なにが一番悲惨かというと無益な点だ。
 あと優れた論者がネットの議論に強いわけではない。ディベートが現実の問題解決に役立たないことが多いのと似ている。
 基本的にイデオロギーが対立している場合は、譲歩はないのだし、そういう場での議論が好きな人間は最初から勝つ気でいる。そして勝つと決めた人間はなんだってやるのだ。そんなやつに勝てるわけないじゃないか。
 私は議論は常に負けることを想定している。私の考えは正しくないかもしれないし、それが明らかになるのを自分が認める地点を残しておきたい。というか、私なんていう人間は社会的には芥子粒のようなもので、キーキー言う意味はない。あるいは私に意味があるとすればそういうことではない。
 私はネットというのは昨今のメディアで言われているような意味では匿名ではありえないと思っている。これには二つ意味がある。一つは匿名にするための技術は薄汚い。あるいはそこまで状況が切迫しているとも思えない。つまり、そこまでして匿名にする意味自体があまり感じられない。二点目は匿名かが問われるほどの意見は実質的に匿名ではない。後者の意味はもっと丁寧に説明しないといけないと思うが。匿名で語ったつもりでいる人間の大半は無だ。
 いずれにせよ、ネットの匿名というのは、日本社会と発言者の一つの関わりの様式であって、べたに匿名=隠れてということにはならないと私は思う。ちょっと議論が飛躍するが、名というのは対価にたいする責務のようなものだろう。単著のある人はそれは売り物なのだからその対価分の責務は問われるだろう。ネットの只話もおよそその程度の対価に比重すべきものではないのか。
 まあ、まじで隠れて発言できるなら、私は何を言い出すだろうかとふと思うことはある。歳を取ったので、そうした自分を滑稽に思う。
 ネットを20年やっていて思うことは、10年を超えて繋がる人や、思い出に残る人がいる。ああこういう人が世に隠れてこの世にあるのかと。まあ、いわゆる世界は5人の聖者によって支えられている伝説みたいなものだが、ネットというのはそういうのをふと感じさせる場でもある。
 本当は何も言わないほうがいいと思うことは多い。ただ、そうも行かないなと思うこともある。ブログを3年もやっていて思ったのは、ネット上にブログは残ったけど、ジャーナリズムは消えたというか流れて消えていく。もちろん、金銭的にアーカイブを参照すればいいので消えるわけではない。でも、ジャーナリズムというのは3ヶ月前のことは忘れて前に行けるというルールが実際にはある。ネットが無責任で大手メディアが責任があるとよく言われるが、3年堪えたブログと比較するなら3年すればそのあたりは逆転する、というか、ブログもそのくらい続けてこそ意味があるのだろう。
 短期金利長期金利の喩えではないけど、短期に人の注目を浴びたいなら貴印的な様式に少しの才能があればいい。だけど、そうした様式をこなす才能なんていうのは金融政策のようなもので、10年を超えて繋がる人や思い出に残る長期金利型の力にはならないと思う。
 皆人はこの世から消えていく。いろんな意味で次の世代を残して。というなら、できるだけ希望を残したほうがいいのだが、希望とかそういうう徳目は実に長期金利型で地味な累積による効果からしか生まれない。
 話がそれるけど、ブログの地獄はブログを語ることだ。

ま、ちょっとだけ、ポランニ

 ⇒ポランニー-暗黙知-人はなぜ特定のウェブを再訪するのか? - シリアルイノベーション [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
 ちょいと批判に聞こえるかもだが、ちょいと。

World Wide Webティム・バーナーズ=リーが考案した当初から、「知るためのメカニズム」であったと理解しています。あるキーワードやフレーズにリンクが埋め込まれており、そのリンクをたどってリンク先に行く。すると理解が深まる。これを使うことで知ることができる。その本質は、Web2.0の今になっても、そしてさらにバージョンが上がってどれほど洗練されようとも、変わらないのではないかと考えています。

 これはいろんな意味でちょいちょいと違う。簡単に補助線だけ言うと。
 ⇒テッド・ネルソン - Wikipedia
 ⇒Tim Berners-Lee

 我々はリンクされた普遍的な情報システムを研究するべきだ。そのシステムでは、普遍性や移植性の方が派手なグラフィックテクニックや複雑な補助機能よりも重要になる。

 ポイントは、この普遍性。
 ⇒極東ブログ: [書評]あなたは生きているだけで意味がある(クリストファー・リーヴ )
 で、ポランニのほう。

①物事の理解は、その理解に先だって、すでに自分の内面にある。これは言い換えれば、人はすでに(暗黙的に)(=コトバでは説明しにくい形で)理解しているもののみを理解するということに他ならない。
②暗黙的な理解には、身体が大きく関係している。今泉が拡大的に解釈したところによれば、人は、身体の鍛錬によって「型」を習得することにより、暗黙的な理解を醸成できる。
③暗黙的な理解の「かたち」は、理解する対象の「かたち」に似る。というよりも、前者の「かたち」が後者の「かたち」を積極的に規定する。これは、オスカー・ワイルドが言っていた「自然は芸術を模倣する」というのに近いように思われる(未定義状態だった自然に関して、芸術家の暗黙的な理解のかたちが表出されることによって明確な定義が与えられ、その表出に接した人たちにも”見える”ようになる)。

 ①については、暗黙知というのは、知る・理解するという言葉で暗示される情報量ではなくて、ポランニが knowing というように「知ることの働き」という含みがある。つまり、人が物を知るための戦略として暗黙知という働きがあるということ。
 ②「身体の鍛錬」ではなく、知が身体に住み込む(indwell) することで身体が変容するということ。鍛錬や型の習得といった外在的な知識の、身体への application ではない。
 ③これは一種の知識のクラス論のようなもので、人が知る・理解するというのはそのメタ構造を持つからという話だと思うが、ポランニはそうしたものを否定するために、knowingという知識の働きを提示している。
 ま、そのくらい。
 なので、ちょっと前提が違いすぎるのでその先のWWWとの理解についてはあまり言及することができない。
 ポランニ思想で重要なのは、knowingということと、その本質的な動きである、indwellingということ。そしてそれが身体性的な組織を形作ることから、emergence(創発)となるのだけど、ここで難しいのは、emergenceがべルクソン的な elan vital ではないということ。この違いを説明するためにポランニは、harnessということを言い出す。
 ま、ポランニ思想はどうもハイデガーなんかみたいにどうも異質な言語で思考されているので、分かりづらいところが多い。

多読とか一日一冊とか

 インスパイア元⇒404 Blog Not Found:多読って何冊ぐらいから言うのか知らん
 小林秀雄が言ってたけど、ある著者の全集を端から端まで読め、と。その割に小林は全集を残さない奇妙な意地悪をしてくれたけど。というか、「感想」が読めなければ「本居宣長」が読めるわけねーのに、それだで読んで欲しいみたいな、こーゆー超高等テクニックの意地悪というのも、この歳になってみるとありがたいものだが。
 で、まあ、全集を端から読めはけっこういろいろと面白い。比較的コストパフォーマンスがいいのは、中島敦山月記だけじゃないというか、中島はどっちかというと西洋的な作家でもあった。

  1. 中島敦全集〈1〉
  2. 中島敦全集〈2〉
  3. 中島敦全集〈3〉

 で、この中島全集だが、速読な人なら3日か、一週間で読めるわけだけど、書架に残るわけですよ。一生残る。というか、正確にいうと、中島敦を受け入れるかだけが問われていると言える。
 つまり、知識じゃない。知識を得るための本はいくらだって読めるもんだし、その場合、知識の構成とかダブリなしとかそういうのが問われる。
 でも人が本を読むのは、知識だけではないわけで、そういうところで本の側から自分の生き様が問われているわけですよ。
 本を読むというのは、丁寧に生きるということ。というか、丁寧に生きるために丁寧に本を読むわけですよ。
 あと、聖書かな。
 聖書読まないと西欧文化のある決定的なところがわからない。ちょっと偉そうにいうと西洋人は聖書が読めるタイプの思考形式が苦手だろうとも思うがさておき。
 ほいで、聖書なんていうのは、読みづらいもんなんで、じゃ、これをパスっていいかというとまあ、そのあたりで読書っていうのの本質的な難しさがあるわけです。
 東洋でいうなら、千字文とか読んでないとどうしようもない。

cover
千字文: 小川 環樹,木田 章義
 千字文を読むうちに東洋というか中華世界の構造が見えてくる。というかその先に読むものは自ずと見えてくる。これが見えてこないと朝鮮とかも理解できない。
 とか言うとオメーは理解しているのかよとか言われそうだが。
 ⇒極東ブログ: 教養について

大石先生、世人の孤独を憂う

 ⇒大石英司の代替空港: 孤独の意味する所

それは私みたいに、物理的な孤独を当たり前のものとして受け入れていた人間ですら、それに加わるだろう精神的な孤独の恐怖は凄いだろうな、と思わせてしまうものがある。
 それを避けるために、あらん限りの努力をすべきだという発想は、あって良いと思うわけです。

 偉いなあ、大石先生。
 と、ウィキを見ると⇒大石英司 - Wikipedia

大石英司(おおいし えいじ 1961年4月8日 - )は仮想戦記を中心に執筆する作家である。
鹿児島県鹿屋市出身、現在は川崎市在住。

 おや、私よりお若いのか。ますます偉いものだと思います。
 ついで、ウィキを見たら、ヒドイこと書かかれまくっている。そういえば先日山本七平の項目をみたら、以前よりマシといえばマシになったが、編集ノートがものすごかった。
 話を戻して。
 しかし、大石先生が嘆いても、世の趨勢は変わらないでしょう。
 団塊世代の人々の結婚も大半は人生振り返って失敗かなと内省するのではないか、というか、そういう内省がぽろぽろと次の世代に影響してしまう。
 世の中というのは、そういう、どういうしようもないもの。

ちょっと補足ぽいけど

 またネタかなと思ったら、けっこうベタで感動しますた。
 ⇒分裂勘違い君劇場 - 社員全員がホワイトカラーエグゼンプションの会社で働いてたことがあります

そう考えると、今回の阿部さんは、とてもいい仕事をしてくれました。
あのまま、「ホワイトカラーの労働は時間で計れるようなものじゃない」という正論を唱えられたら、
ホワイトカラーエグゼンプションに反対する人たちは、苦しい戦いを強いられたところでした。

 のあたりはネタでしょうけど。
 で、と。
 私もどっちも首突っ込んだことがあるけど、時代が古いのでなんとも。
 ただ、サラリ社のすごさというのがあることはわかった。
 なんつうか、衆愚力というのか。
 一つは有能な人間は飼い殺ししておくことに意義がある。これは他社に奪われないためとかもあるけど、いざというときとかもすげー威力を持つ。
 もう一つは皮肉みたいに聞こえるけど、衆愚を率いるに愚将をもって最善となすみたいなことがある。あのですね、リーダシップだけが問われる仕事っていうのがあるというか、サラリ社の仕事っていうのは突き詰めるとそういうもの。つまり、有能な人の1/3の能力の人でもその程度の対価で飼っておけるなら、3倍の量を投下すればいいのですよ。すげーですよ。その人間を使うにはそのレベルを理解できるリーダーでないとダメ。人間っていうのは愚かな人でも上に立つ人を有能さより信頼や共感で選んでいるものです。
 そして、仕事っていうのは社会との接点というのがあるから、些細なところで人情が問われるのだけど、人情力っていうのは仕事の能力とどうも反比例するところがあって、そうしたマクロ効果をサラリ社はもっていたりするわけです。どーんと。