批判とか論争とか罵倒とか
あまりする気はない。私はもう枯れてしまったのと、なんというかそういうものの地獄に疲れたかなというのはある。なにが一番悲惨かというと無益な点だ。
あと優れた論者がネットの議論に強いわけではない。ディベートが現実の問題解決に役立たないことが多いのと似ている。
基本的にイデオロギーが対立している場合は、譲歩はないのだし、そういう場での議論が好きな人間は最初から勝つ気でいる。そして勝つと決めた人間はなんだってやるのだ。そんなやつに勝てるわけないじゃないか。
私は議論は常に負けることを想定している。私の考えは正しくないかもしれないし、それが明らかになるのを自分が認める地点を残しておきたい。というか、私なんていう人間は社会的には芥子粒のようなもので、キーキー言う意味はない。あるいは私に意味があるとすればそういうことではない。
私はネットというのは昨今のメディアで言われているような意味では匿名ではありえないと思っている。これには二つ意味がある。一つは匿名にするための技術は薄汚い。あるいはそこまで状況が切迫しているとも思えない。つまり、そこまでして匿名にする意味自体があまり感じられない。二点目は匿名かが問われるほどの意見は実質的に匿名ではない。後者の意味はもっと丁寧に説明しないといけないと思うが。匿名で語ったつもりでいる人間の大半は無だ。
いずれにせよ、ネットの匿名というのは、日本社会と発言者の一つの関わりの様式であって、べたに匿名=隠れてということにはならないと私は思う。ちょっと議論が飛躍するが、名というのは対価にたいする責務のようなものだろう。単著のある人はそれは売り物なのだからその対価分の責務は問われるだろう。ネットの只話もおよそその程度の対価に比重すべきものではないのか。
まあ、まじで隠れて発言できるなら、私は何を言い出すだろうかとふと思うことはある。歳を取ったので、そうした自分を滑稽に思う。
ネットを20年やっていて思うことは、10年を超えて繋がる人や、思い出に残る人がいる。ああこういう人が世に隠れてこの世にあるのかと。まあ、いわゆる世界は5人の聖者によって支えられている伝説みたいなものだが、ネットというのはそういうのをふと感じさせる場でもある。
本当は何も言わないほうがいいと思うことは多い。ただ、そうも行かないなと思うこともある。ブログを3年もやっていて思ったのは、ネット上にブログは残ったけど、ジャーナリズムは消えたというか流れて消えていく。もちろん、金銭的にアーカイブを参照すればいいので消えるわけではない。でも、ジャーナリズムというのは3ヶ月前のことは忘れて前に行けるというルールが実際にはある。ネットが無責任で大手メディアが責任があるとよく言われるが、3年堪えたブログと比較するなら3年すればそのあたりは逆転する、というか、ブログもそのくらい続けてこそ意味があるのだろう。
短期金利と長期金利の喩えではないけど、短期に人の注目を浴びたいなら貴印的な様式に少しの才能があればいい。だけど、そうした様式をこなす才能なんていうのは金融政策のようなもので、10年を超えて繋がる人や思い出に残る長期金利型の力にはならないと思う。
皆人はこの世から消えていく。いろんな意味で次の世代を残して。というなら、できるだけ希望を残したほうがいいのだが、希望とかそういうう徳目は実に長期金利型で地味な累積による効果からしか生まれない。
話がそれるけど、ブログの地獄はブログを語ることだ。