読売社説 [日露首脳会談]「『時の利』ない時こそ戦略が大事だ」
「時の利」がない今、日露関係を無理に動かす必要はあるまい。
逆だよ。今こそ日露友好の苗木を植えていかなくては。って、広告屋使って韓流でっちあげろってもんでもないが。
参考⇒極東ブログ: [書評]雷のち晴れ(アレクサンドル・パノフ)
読売社説 [奈良補導条例]「非行の芽を摘む体制を作りたい」
なんか意味不明なんすけど。
朝日社説 新型ウイルス 薬の備えは国の責任
どうでもいいくだらねー社説なんだが、が、というのは、しかし、日本のメディアはタミフルがどういう薬なのかまるで説明しないね。なぜなのか。
イチホゲ スキウタってどうよ。
⇒第56回 NHK紅白歌合戦
⇒選考どうなる?NHK「スキウタ」上位紅白各100曲発表
激しく萎えるのだがそれが年末向けということか。
とリストをさらに見て、いやいやこんなもんすか。
宇多田がAutomaticかぁ。微妙。この詩理解されてないんだろうな。
おまけ。
いわゆるホゲ⇒livedoor ニュース - 【ファンキー通信】毎日食べるアレで、花粉症から解放
ライターさんってお題があると書いてしまうもの。
追記
⇒「スキウタ」はナゾばかり…紅白の灰色部分
投票は「はがき」116万3507件、「インターネット」15万9563件、「携帯電話」14万6540件−など。中間発表時、6割が携帯電話やパソコンのネット投票だったことに比べ、はがきが急増した。最も関心のある順位を発表しないことについては、制作サイドは「本番までの演出に関係するので、今のところは明らかにしない」と苦しい弁明をしたが、その背景には、「手間のかかるはがき応募が100万通を超えるのは不可解。歌手名と楽曲が印刷されたものが大量に送られたと聞きました。明らかに組織票があったのでしょう」と音楽ジャーナリストの渡辺裕二氏は指摘する。
イチネタ このあたりイチネタだと思うのだけどどうっすかね
⇒asahi.com: 卵子提供の16人に金銭渡す ソウル大ES細胞研究 - 社会
再生医療で注目されているヒトクローン胚(はい)から世界で初めて胚性幹細胞(ES細胞)をつくることに成功した韓国ソウル大の研究チームと協力していた病院理事長が21日、卵子を提供した16人の女性に「補償金」の名目で一人あたり150万ウォン(約16万5千円)の現金を渡していたことを記者会見で明らかにした。
古杉ですかそうですか。(ざけんな韓国とか言ってはダメ? この問題だけに限定してるんだけどほい。)
ほいじゃ、これとか。
⇒Sankei Web 経済 日本連合、「はやて」60編成を受注 中国新幹線(11/21 17:14)
中国政府が進めている時速300キロ級の高速鉄道計画で、川崎重工業など日本企業連合6社と提携する中国メーカー「南車四方機車車両」が、東北新幹線「はやて」を基本にした車両計60編成(408十両)を受注する見通しになったことが21日分かった。
裏?そりゃボーイングとセットとか。
え?台湾新幹線はどうか? なんなもの欧米の意地悪にまいったまいったこりゃととか言えないじゃないですか謙虚な日本だし。無防備日本だし。
ときたま思うのだが、
pseudo problem と problematic nonsense。そんな英語があるのか知らないが。
それは問題のような様相を示しているけど、全然問題じゃないでしょっていうやつ。
みんなでわいわい議論しているけど、それはナンセンスでしょっていうやつ。
Pseudo Problem Criteriaみたいなものがあればいいのだけど。というかそのあたり、プラグマティズム的に議論されてないのだろうか。ある問題が問題に足るための基準。
Problematic Nonsenseのほうは、どうか。
若いころはイエスとはどんな人かと考えた
今はあまり考えない。
聖書学的には、史的イエスについては、まるでわからない。せいぜいわかるのは、政治犯というくらい。ザルカウイみたいなもんかもしれない、というくらい。比較は悪いのだが、わからないのだもの。
パウロはイエスをどう見ていたかというと、これが、またよくわからない。パウロ書簡にある、「主」(アドナイ)は神を意味するのかイエスを意味するのか、マジで考えるとわからない。しいていえば、イエスであり、イエスという神だろう。ただ、パウロには、神の直接体験があったことは確かだろう。
私は、三位一体論をどうしても受け入れにくいというのがあった。それぞれの神性は理解できる。をもって代えていた。もともと平信徒に三一の神秘などどうでもいいというのはある。ブルンナーはそんなことを悩むのはやめなさいと言っていたっけ。
歴史的にみると三一論はたぶん異教のものではないかとも思った。ミトラ教であろうか。
が、三一には教父の直覚がこめられているだろうとは思った。
山本七平が晩年に書いたイエスへの言及で、ほぉ、なるほどと思ったことはある。
自分も歳をとった。
イエスの歳を越えた。随分越えた。してみると、イエスとは人の象徴といったものであろうとは思う。
ヒューマニスティックな理解や文学的に理解するものでもなく、人の経験のある純化のなかで見ている、人に現れる神性といったものであり、ま、神であるというあたりは、教父たちの直覚に近いのかもしれない。
が、正直にいって、そんなことはどうでもよくなった。
信仰というか宗教というのが抜本的にどうでもいいやという感じがする。というか、好きな人はどうぞ。
ニヒリズムというのでもない。
親鸞が阿弥陀の救いが親鸞一人がためなりと晩年漏らすが、悔恨の思いというより、実存というより、他者への伝達不能ななにかであったのだろう。
というか、そんなこともどうでもいいやと思う。
若くして死ぬを人みるとせつないと思う
自分も50歳近くまで生きると思ってなかったし、その他、思いがけないこともあった。
早世した人にくらべれば、のうのうと免れていることよと思う。恵みでなくしてなんであろうか。
死が恐いかといえば、恐い。そりゃねである。
ただ、こうして流されるように生きて、老いていけば、死というのは、その終わりとして自然にあるものだろう。老衰というのは、中の人にもよいものではないか。
ってか、まじでそういうあたりで自分がボケてきたなと思う。
よく自分はボケてないとかいう人がいるが、私は、正直にいうとわからん。ボケているというより、もともとある種の能力はないのであり、粗忽者、おっちょこちょいだし、ま、そんなものだろう。若い頃からな。
むしろ、ボケというのは、なかなか心が老いていかないということだろう。ぼけっと秋空を見ていると、青春の胸キュンみたいのがあって(少ないがさすがに)、無意識では自分の歳は25歳くらいで止まっている。
もちろん、25歳では止まっていない。止まらないように生きてきた。死ねるように生きてきたし。
そういえば先日四谷から新宿を歩いた
よく歩いたものだが、実際に歩いたのは15年ぶりくらいだろうか。
いろいろなことを思った。街はもちろん変わっていた。
新宿三丁目、二丁目あたりでちょっと横町なども覗いた。戦後を思わせる色町のような風景はあらかた無くなっていた。そんなものだろう。
五木寛之の青春の門みたいなもんである。
あの小説はどっかで終わりがあるのだろうか。
どこまで読んだのだったか。
たいていの小説における、初夜の描写というのはたいしたものではないが、青春の門のそれは、そう悪いものではなかった。
たしか、織江は、そのあとで、「かえるのごつなった気がする」みたいに言っていたと記憶する。違うか。
そういうディテールにある、女の、匂いというか、ぬくみというか、やさしさというか、それはあの時代だけのものだったのかもしれない。
そんなことはないのだろうけど。