若いころはイエスとはどんな人かと考えた

 今はあまり考えない。
 聖書学的には、史的イエスについては、まるでわからない。せいぜいわかるのは、政治犯というくらい。ザルカウイみたいなもんかもしれない、というくらい。比較は悪いのだが、わからないのだもの。
 パウロはイエスをどう見ていたかというと、これが、またよくわからない。パウロ書簡にある、「主」(アドナイ)は神を意味するのかイエスを意味するのか、マジで考えるとわからない。しいていえば、イエスであり、イエスという神だろう。ただ、パウロには、神の直接体験があったことは確かだろう。
 私は、三位一体論をどうしても受け入れにくいというのがあった。それぞれの神性は理解できる。をもって代えていた。もともと平信徒に三一の神秘などどうでもいいというのはある。ブルンナーはそんなことを悩むのはやめなさいと言っていたっけ。
 歴史的にみると三一論はたぶん異教のものではないかとも思った。ミトラ教であろうか。
 が、三一には教父の直覚がこめられているだろうとは思った。
 山本七平が晩年に書いたイエスへの言及で、ほぉ、なるほどと思ったことはある。
 自分も歳をとった。
 イエスの歳を越えた。随分越えた。してみると、イエスとは人の象徴といったものであろうとは思う。
 ヒューマニスティックな理解や文学的に理解するものでもなく、人の経験のある純化のなかで見ている、人に現れる神性といったものであり、ま、神であるというあたりは、教父たちの直覚に近いのかもしれない。
 が、正直にいって、そんなことはどうでもよくなった。
 信仰というか宗教というのが抜本的にどうでもいいやという感じがする。というか、好きな人はどうぞ。
 ニヒリズムというのでもない。
 親鸞阿弥陀の救いが親鸞一人がためなりと晩年漏らすが、悔恨の思いというより、実存というより、他者への伝達不能ななにかであったのだろう。
 というか、そんなこともどうでもいいやと思う。