今日の新聞各紙社説は…

 サマワの問題はよくわからないところがある。が、とりあえず、社説レベルではそうしたところに斬り込んでいないので、なんとも言いようもない。
 毎日のウィニー記事だが、毎日の内部には詳しい人もいるだろうになんでこんなものが社説に出てくるのか。
 朝日がひどいというかエンタのクオリティとして最高というか。

●日経社説 JR西の安全体制は十分か

 大ハズシ。よくわかんないけど、体制を論じて事故を科学的に見ないというのは、ほとんど原始宗教。

●日経社説 行政への信頼傷つけた経産省不祥事

 お役人なんてそんなもの。些細なカネじゃないか。

●産経社説 家族会座り込み 拉致の原点を思い出そう

 言及を控える。

●産経社説 サマワ自衛隊 安全確保して任務再開を

 ま、政府見解的。

●毎日社説 原発情報流出 人ごとでは片付けられない

  ァ  ∧_∧ ァ,、 
 ,、'` ( ´∀`) ,、'` 
  '`  ( ⊃ ⊂)  '` 

●毎日社説 サマワの自衛隊 危機管理のあり方総点検を

 朝日よりはちとまとも。ちと、という程度。ちなみにチトーなきユーゴは分裂した。

●読売社説 [保護観察]「制度疲労を修復し再生図れ」

 上っ面な感じはするがとりあえずは正論か。読売的というか。

●読売社説 [株主総会]「企業統治の革新は時代の流れだ」

 社説の意味があるのだろうか。べた記事に近い気がするが。

●朝日社説 都議選 有権者がうらやましい

 くだらね。石原憎しだけ。もっと困ったヤツがいるに。

●朝日社説 イラク駐留 撤退への道すじを描け

 悪意か馬鹿か。後者でしょうね。事情を知らないみたいだし。

出ましたイチホゲ

 ⇒【ピープル】「韓半島の国籍が欲しい」 ソウルに来た在日同胞3世記者
 現実は、キョッポ(僑胞)の差別は厳しいので、そうした実情をもって読むと…か、感動の物語かも…。っていうか、日本に帰化しても半島の統一を願うことはできるし、そこまでナショナリティにこだわる必要があるのかないのかあるのかときかれたらこたえてあげるがよのなさけ。

それほど勧めるものではないけど…

 これは意外と便利。昭和30年代の家庭料理っていう感じ。
こんな料理で男はまいる。



著者:大竹 まこと

販売:角川書店

価格:\1,575

媒体:単行本



 私自身はこの手の料理にアンビバランス。しかし、喰うには喰う。私より年代が上のオヤジはなんだかんだいってもこの手のものを喰わせておくと幸せ。
 私より下の世代は…よくわからない。
 現在の20代はもしかすると、ここに記載されている料理はある種のエスニックかもしれない。
 でも、ま、この手の料理は、きちんとつくると、それなりに美味しいこともたしか。
 というか、お子様料理。

ちょこっと仮名遣い…

 ぶくまに仮名遣い云々の話があった。私はごらんのとおり、現代表記しか使わない。それも滅法めちゃくちゃな代物で、ま、そんなところだ。日本語は変わるし、表記も変わる。変わらないものがなにかあるかもしれないが、それはまさに日本語という言語が生き生きと生きているその運動のさなかのなかにある。ま、そんなところだ^2。(江戸の言語活動を見ればそこに生き生きとしてなにかを感じうるしそれがむしろ、明治以降途絶えてしまっていることに気が付く。明治時代の日本があるしゃっちょこばった奇怪なプライドのようなものを言葉に担わせて実際は人間生活の言葉を覆ってしまった面がある。すべてとは言わないが。)
 いわゆる旧かなのルールはそう簡単でもないが、そう難しくもないのではないか。畢竟、それが音声として語りうるならその音価をピヴォットにすれば可換ではあるだろう。その程度のものだろうとは思う。
 が、個人的には、高校生くらいできっちり、旧かなと旧字を教えるべきかなとも思う。それが読めることは、人生の後半に豊かなものをもたらす、と信じるからだ。私は歳を深めるにつれ、ある時代の文書はその時代のまま読むべきではないかと思うし、この乱れきったかに見えるような現代日本語だがきちんと千年を越える根を持っているのであって、日本語に向き合ってさえれば、千年前の日本の先達の残した文書は読めるものだ。というか、それが文化とういものだろう。
 ただ、自分でなさけないなと思うのは、きちんと漢文が読めないことと候文が読み書きできないことだ。これだけはもうダメだろう。道元の書き残されたものを読みながら、そこに漢文的な素養の深さを感じる。ま、仏典ということもあろうが。
 候文については、本当はそれこそが生活の言葉でもあったものだ。宣長先生も、れいの凝った擬古文より候文のほうがある面では直截にその精神を表している。
 ま、言葉というのは、心であり、心というのは言葉の形を取るのだが、言葉の形とは、表記というルールだけもないが、その手のことは言うに虚しかろう。
 あー、庶民の言葉は、落語にきちんと残されている。落語こそ、ことば音声であることを如実に示すものではあるな。昭和30年代くらいまでの江戸の落語(レコードもの)だと、きちんと江戸の言葉のなにかが残っている。

そうえばひらがな…

 あまり批判めいたことを書く気はないし、どっかのどなた様とかを暗に念頭に置いている気はさらさらにない、誤解無きようであるが、いわゆる仮名の議論というのは、すでに活版をベースとしていて、版木ですらない。まして手書きですらない。
 以前、いやいやけっこう前のことになるか、ひらながについて少し調べたことがあって、近代以前にはけっこう、いわゆる変体仮名というのか多いことを知った。仮名というのはまさに仮名であればよいのであって、その本質は活版印刷的なものではなかった。もっと、生成的な何者かでり、その言語活動のある有り様に心うたれた。
 考えてみえば、日本語がこうして、ころころと兎の糞を一列にしたように書けるというのは、それが現代仮名遣いであれ旧仮名遣いであり、すでに出版文化の派生という意味ではたいして変わるものではないし、そして出版文化の派生というのは、オリジナルとコピーの不可分性でもあろう。良寛の書などそのグラフィカルな属性というか総合をそのオリジナルを出版文化に移し替えたとき、近代のテキストに変わるのであり、あるなにかは決定的に失われてしまう。そして失われた一部が「書」としてまた分化されるのだが、それは、たぶん、むなしい所業でもあるのだろう。

そういえば…フォルメン

 を子どもたちを集めて教えようかと思うことがある。自分がまともにフォルメンを学んでもいないし、そこからオイリュトミーに移せる力量もないので、結局、だめかと思うのだが。
 昨今街中で子どもたちを見るに、手が、全然だめだ。手の動きがまるでなってない。かく言う私も悪筆の極みなのでしかたないのだが、それにしても手が死んでいるな今の子はと思う。書の訓練がないというのは大きいだろう。また、喰っているものがそれなりの所作を必要としないものでもあるからだ。豆を食えば豆がつまめるようなろうものを。
 もう随分前だが、学生に初等数学を教えているころ、ちょっとしたいたづらごころで、7で割るという循環小数エニアグラムを描き出すことをちょっと説明した。そこに神秘性のようなものを感じる子はあまりなかった。
 1/7=0.14285714285714285714285714285714
 2/7=0.28571428571428571428571428571429
 3/7=0.42857142857142857142857142857143
 というように、循環があり(あたりまえだが)、そしてそれはエニアグラムを描く。

 これにオクターブの神秘性が重なる…。
 というあたりをマジに神秘学に持っていく必要などはさらさらさないが、数と素数エニアグラムの関連の直感は脳の深いところに呼応するものだと思うが、そうした感覚とふれることのない学問も虚しいのではないか。

ひょんなことからNHKの少子化ドラマを見た…

 ま、それなりによくできたお話ではあった。
 介護サービスに外人が投入されるという図も映像的には描かれていた。
 が、結局、日本のローカルなものへの心性に収斂させてしまっていた。ふるさとの海、山、お盆の心みたいなものは日本的な郷愁を誘うものだが、残念ながら、そんなものに未来はない。
 俺もあと十二年も生きたら六〇歳になる。別段、恐くもないし、そこまで生きられるなら生きてみたいなと思う。幸いにして、パウロの祈りのように、神が存在するなら、私への恵みは充分であった。未来というのがありうるなら、神がありうるなら、そうしたなにかに、そしてどうせ死ぬ身でもあろうし、委ねてるように流されてもいいのであろう。
 私が喰えなくなる、のたれ死ぬ…そういうこともあるのかもしれないが、どうすることもできはしないのだし、二十五歳のころ四〇過ぎまで生きるとも思っていなかったものがもう四八にもならんとしている。
 啄木や賢治が死んだ歳を越えたとき思うことはあった。太宰や三島が死んだ歳も越えてしまった。次は漱石だなとじわじわと漱石の思いが伝わってくる。先日、漱石の「思い出すことなど」を読みながら、いろいろうちあたいすることも多かった。
 自分の歳に小林秀雄がどんな仕事をしていたのかもなんとなくわかるようにも思う。
 生きて老いていくことでしかわかり得ぬものはあるにはある。

そういえば、

 先日スタバでくだばって、ぼんやり若げな人を見ながら、若い人には夢もあろうなと思ったとき、ふと、奇妙なことに気が付いた。私にも夢があった……が、夢は私を呪縛していただけだったのではないか。私はクズのような人間になってしまった。若い日の夢はかなうことはなかった。何事もなしうるものではなかった。クズはクズなりにつつましく生きるべきだとは思うがかく雑文を書き散らすに得心にはいたらぬ。が、それでも、そのおり、ふと、もう夢から解放されてもいいのだ、夢から自由になってもいいのだという感じがした。
 かくあるべしという、サルトルなら投企というか、そういう実存のありようとは、実は実存のありようではなく、存在を擬態にする呪縛ではないのか。ハイデガーのいう世人への頽落も、吾がごとくクズに堕ちてしまえば頽落も糞もなくただ孤独であるしかあるまい。して、最後に夢からも逃れるのだ。
 かつて夢があった。夢はむなしかった。私の人生は失敗だった。そう、それは、そのとおり。もう、だから、そういう私の夢に呪縛された人生は終わりだし、ま、生きることがのこれば、ただ流されて生きるだけだなと思う。

こどもとメガネ…

 気のせいか、小学生くらいの子のメガネが増えてないだろうか。どっかに資料があるか。
 メガネの人はどうしてもある種の運動能力ががとんと落ちるし、その結果は腰に出ると思うが…ま、そう思うだけだが。

そういえば、腰、

 人が歩くときどう腰を動かすかというのを私はよく見ている。見ている理由はとくにない。人間の運動というものに関心をなんとなく持ち続けているだけのこと。
 で、昨今の人の腰はかなり変だなと思う。無理な動きが多い。
 年代にもよるのだろうが、腰痛はどのくらいか、また、たぶん、痔も関連するのではないか。
 足腰の筋力がないせいもあるのだろうか。
 いわゆるスポーツマン的な人は、かたい、という印象を受ける。あれは歳をとるに無理になるだろうなという気がする。
 腰がなめらかにきれいに運動しないと、あれだ、※※※がうまくできないと思うのだが、そのあたり、どうなのかなとも思う。
 ま、かく言う自分も背筋と肺の筋肉になにか問題があるようだ。腰はそれほどでもないではと思うが。