そうえばひらがな…

 あまり批判めいたことを書く気はないし、どっかのどなた様とかを暗に念頭に置いている気はさらさらにない、誤解無きようであるが、いわゆる仮名の議論というのは、すでに活版をベースとしていて、版木ですらない。まして手書きですらない。
 以前、いやいやけっこう前のことになるか、ひらながについて少し調べたことがあって、近代以前にはけっこう、いわゆる変体仮名というのか多いことを知った。仮名というのはまさに仮名であればよいのであって、その本質は活版印刷的なものではなかった。もっと、生成的な何者かでり、その言語活動のある有り様に心うたれた。
 考えてみえば、日本語がこうして、ころころと兎の糞を一列にしたように書けるというのは、それが現代仮名遣いであれ旧仮名遣いであり、すでに出版文化の派生という意味ではたいして変わるものではないし、そして出版文化の派生というのは、オリジナルとコピーの不可分性でもあろう。良寛の書などそのグラフィカルな属性というか総合をそのオリジナルを出版文化に移し替えたとき、近代のテキストに変わるのであり、あるなにかは決定的に失われてしまう。そして失われた一部が「書」としてまた分化されるのだが、それは、たぶん、むなしい所業でもあるのだろう。