ちょこっと仮名遣い…

 ぶくまに仮名遣い云々の話があった。私はごらんのとおり、現代表記しか使わない。それも滅法めちゃくちゃな代物で、ま、そんなところだ。日本語は変わるし、表記も変わる。変わらないものがなにかあるかもしれないが、それはまさに日本語という言語が生き生きと生きているその運動のさなかのなかにある。ま、そんなところだ^2。(江戸の言語活動を見ればそこに生き生きとしてなにかを感じうるしそれがむしろ、明治以降途絶えてしまっていることに気が付く。明治時代の日本があるしゃっちょこばった奇怪なプライドのようなものを言葉に担わせて実際は人間生活の言葉を覆ってしまった面がある。すべてとは言わないが。)
 いわゆる旧かなのルールはそう簡単でもないが、そう難しくもないのではないか。畢竟、それが音声として語りうるならその音価をピヴォットにすれば可換ではあるだろう。その程度のものだろうとは思う。
 が、個人的には、高校生くらいできっちり、旧かなと旧字を教えるべきかなとも思う。それが読めることは、人生の後半に豊かなものをもたらす、と信じるからだ。私は歳を深めるにつれ、ある時代の文書はその時代のまま読むべきではないかと思うし、この乱れきったかに見えるような現代日本語だがきちんと千年を越える根を持っているのであって、日本語に向き合ってさえれば、千年前の日本の先達の残した文書は読めるものだ。というか、それが文化とういものだろう。
 ただ、自分でなさけないなと思うのは、きちんと漢文が読めないことと候文が読み書きできないことだ。これだけはもうダメだろう。道元の書き残されたものを読みながら、そこに漢文的な素養の深さを感じる。ま、仏典ということもあろうが。
 候文については、本当はそれこそが生活の言葉でもあったものだ。宣長先生も、れいの凝った擬古文より候文のほうがある面では直截にその精神を表している。
 ま、言葉というのは、心であり、心というのは言葉の形を取るのだが、言葉の形とは、表記というルールだけもないが、その手のことは言うに虚しかろう。
 あー、庶民の言葉は、落語にきちんと残されている。落語こそ、ことば音声であることを如実に示すものではあるな。昭和30年代くらいまでの江戸の落語(レコードもの)だと、きちんと江戸の言葉のなにかが残っている。