ひょんなことからNHKの少子化ドラマを見た…

 ま、それなりによくできたお話ではあった。
 介護サービスに外人が投入されるという図も映像的には描かれていた。
 が、結局、日本のローカルなものへの心性に収斂させてしまっていた。ふるさとの海、山、お盆の心みたいなものは日本的な郷愁を誘うものだが、残念ながら、そんなものに未来はない。
 俺もあと十二年も生きたら六〇歳になる。別段、恐くもないし、そこまで生きられるなら生きてみたいなと思う。幸いにして、パウロの祈りのように、神が存在するなら、私への恵みは充分であった。未来というのがありうるなら、神がありうるなら、そうしたなにかに、そしてどうせ死ぬ身でもあろうし、委ねてるように流されてもいいのであろう。
 私が喰えなくなる、のたれ死ぬ…そういうこともあるのかもしれないが、どうすることもできはしないのだし、二十五歳のころ四〇過ぎまで生きるとも思っていなかったものがもう四八にもならんとしている。
 啄木や賢治が死んだ歳を越えたとき思うことはあった。太宰や三島が死んだ歳も越えてしまった。次は漱石だなとじわじわと漱石の思いが伝わってくる。先日、漱石の「思い出すことなど」を読みながら、いろいろうちあたいすることも多かった。
 自分の歳に小林秀雄がどんな仕事をしていたのかもなんとなくわかるようにも思う。
 生きて老いていくことでしかわかり得ぬものはあるにはある。