自然数と実数
自然数と実数は自然的な型ではないか?とか昨日から今日にかけていろいろ考えていた。ふとカントールが何を考えていたのかわかったように思えた。
実数というのはその名に反して存在しない、というと言い過ぎだが、ある方法論的な意識によって現れる連続・無限の別名だ。アレフ0とアレフ1はカーディナルの差異ではあるだろうが、すべてはアレフ0から成り立っている……たぶん。
コンピュータ・サイエンスでは、singleやdoubleとかいうが、そういう型は自然的には存在しない。
では、stringは型か? 3と"3"は違うのではないか。というか、それは何だか別の問題のように思える。
コンピュータ・サイエンスでは、classやtypeで、typeはclassだし、まあ、マルクスやヴェーバーも基本的には似たように考えている。
ただ、ことが人になると、人というクラスからは人のインスタンスはできない。少なくとも社会活動・経済活動においてはインスタンスはべたにモデルでしかない。
このあたり、むしろ、ヘーゲルにはなにか直感はあったのかもしれない。
あるいはニーチェはその人というclassとinstanceの欺瞞に気が付いたのかもしれないが、それが存在論なり実存論なりに流れてしまったのは大きな間違いだったかも。
大森なら、型という対象(オブジェクト)はなく、振る舞いがあると言うだろうか。たしかに、実数は自然数の振る舞いから出てきそうだ。まあ、しかし、大森はこの手の子戯には関心をもたないだろう。
まあ、現実的には、コンピュータ・サイエンスと数学が対立しても、社会の場によって、つまりその求められるproductivityによってharnessされる。そう考えると、Javaとういのはよくできた言語だったのだろう。
ただ、やはり数学とコンピュータ・サイエンスの乖離はある。
むしろ、数学がある分野のコンピュータ・サイエンスのように見えるようでもある。
ゲーデルは何を考えていたのだろうか、本当は。