木曜日か
速いなというのと、今週はいろいろあった。ちょっとつらいこともあった。人生に暮色がかかる時期なので本格的につらいことは若いときのそれとは違う。逆に若いときにつらさはその前の小さなつらさを飲み込むことで回避できるし、自分のためだけでなく回避しなければならなくなる。と、こういうのが老いの色でもある。
栗先生のエントリだったか、極東ブログのランクが1つ落ちたようにあった。基本的には落ちていっていいし、自分のができることしかできない。ただ、少し他も調べてみると日本のブログ全体が落ちているというか、ややいわゆるロングテール化が短縮というか肥えているかそういう傾向もありそうだ。たぶん、Googleなどweb2.0系のトラヒックが増えて世界全体的にはというかGoogleが認識するネットの世界的にはランク1つずらすくらいの変化が終わったのだろう。これは日本がさらにローカルになっているということかもしれない。Google周りで関連で最近のエントリのAdSenseを見ると、固い話というかややイデオロギー的にも解釈される話には広告が付かない。これは私の書き方がいけないのか、この手の話題にはそもそも広告主がいないのかというと、どちらかといえば後者だろう。日本はうまくWeb2.0的な広告ビジネスが展開していないし、していく可能性も低いのかもしれない。まあ、この問題は私の書き方の面もある。
最近は不要な軋轢を減らそうと思って控えめに書いているつもりなのだが、それでも奇妙な反発や揶揄をいただく。そしてその反感のコアが私という書き手に集約される面もありそうだ。私なんぞに関心もつなよ、お若い衆と思うが、ブログというのはそういう反感の対象になりやすい鏡像的な幻想性を持ちやすいのだろう。そういえば私がきっこの日記に攻撃していると言われたことがあったように思うが、私はもっと広い水準でしか見てないので、直接あれに関心があるわけでもない。
ただ、こういうのはしかたないのかとは思う。もっと賢く書くべきだというのはあるかもしれない。
ブログと限らないが書けば書くほど孤独になる面はある
それはそれでしかたないのだろうなと割り切っているし、その折りごとに、孤独に向き合ういいチャンスにするしかない。しかし、俺はどうしてこんな地獄にいるのだろうと思う。ただ、幸いにその地獄から福音をもたらすような仕事はしない。そういうことができる能力がない。そうされている方を私はブログの世界で数名知っているが、あえて言及しない、うまくエールが届けばいいと思うが。メールなりでエールを送るというものでもないだろう。
孤独には悪の臭いがする。私は若い時にはより善なる人間になるべきだと思っていた。たぶん、それは愛情との取引だったのではないかと思うし、実際には混乱し小悪をまきちらしていた。傲慢でもあった。今でも傲慢ではあるのだろうが、あのころは傲慢というのがよくわからなかった。
愛は、というと違うが、恋愛は人を悪にする。また美は悪を免れない。その本質に悪があるのかわからないが、恋愛の陶酔、美の陶酔は悪を不可欠としていることは確かだし、そこからできるだけ避けて生きるのが、生きたいのであれば、生きる術ともいうべきだろう。が、人は、そういう悪に落とされるとでもいうようなありかたに置かれることがある。ティリヒはそうした悪の力にも存在の力を見ているようだし、彼自身が、恋愛の陶酔、美の陶酔と無縁な人ではなかった。
ティリヒはこう言ってもいいかなと思うがその組織神学の価値よりも、彼の晩年の説教の実践のなかにその本質があるのではないか。ただ、その側面が大きく大衆を巻き込むことはなかったので見えづらい。
その点、と、私は蓮如を思う。蓮如の巨大さは不気味なほどだし、その巨大さを否定することは不可能だろう、が、そのお文などから見る思想性やその態度はそれほど明確ではない。蓮如もまた説教の実践性のなかに何かあった。
蓮如は、物を言え、物を言え、物を言わざるは恐ろし、だったか、そう説いて、人を組みにして語らせた。ブログはある意味で、そうした蓮如的な活動でも結果的になりうる。ネットを使った犯罪というのはある一定以上減らないし全体に連動するだろうが、ブログなどに撒き散らされる悪意というのはそれが語られる分だけ、なんというか間抜け感が漂うし、悪の本性を剥き出しにするものでもない。言葉は肉体になろうとするが、肉体にはなりきれないからだ。肉体こそが悪を、陶酔を、美を、恋愛を可能にする。主はだから受肉せざるをえなかった。
私はそうした渦中にいる。痛みはあるし、痛みをこじらしもする。愚かだ。
憲法については
振り返ってみると、極東ブログを書いてきたおかげで、もう書き尽くした。誰かに届いたかもしれないし届かなかったかもしれないが、この問題は私はもう人生の課題としては終了したつもりだ。
⇒日本国憲法 - Google 検索
日経 春秋(5/3)
今、1年でいちばん澄明な日本の山野。森と田畑の、滴るような、透き通るような新緑をながめて、食とエネルギーと地球におもいをはせる連休も悪くない。
失笑してもしかたないがその森有正がくちすっぱく日本には自然がないのです、といった言葉は結局ほとんど通じていない。森はいらだった。森には3発目の原爆が見えた。たぶん、イザヤ・ベンダサンは再度の東京空襲を見えたのだろう。しかし、どうにもならない。少なくとも私はどうにもならないと思う。そう思う分だけ日本人だし、日本人に寄り添っている、が、まあ、言うだけ誤解されるだろう。お前は日本人じゃなのか? いや私はしばらくするとこの世界とともに日本に別れを告げるだけの存在だ。
毎日社説 平和主義を進化させよう 国連中心に国際協力拡大を
たぶん執筆者も何を書いているのかわかってないのだろうが、こういう抜けた平和主義は煎餅会の善良な側面でもあった。
性行為の逆説というか
男も女の性行為の経験の多い人間が、比較的、よく語るし、その語りには、性行為を見切ったような概観が含まれる。
だが、滑稽なのは、そうした概観ほど古典の世界で描かれ陳腐になっているものはない。少なくとも語られた性行為の経験の概括は、つまらないものにしかなりえない。そして残るのは、彼らの多数の性行為の実践だけになるが、そこにそれだけの生と身体をかける欲望の意味が、逆説として性行為の意味から遠ざけてしまう。
山本夏彦翁も言っていたが、たくさんの女の経験があるといっても、一人で千人分を薄めたのようなものでしかないという面もあるだろう。まあ、そのあたりの予感で、引き返すか、およそそういう世界と無縁になるべく定められた凡人が多い。
ふと思ったのだが。
これだけ人間種が性行為の可換性を持っているのは、遺伝子や進化という枠組みより、社会の臨界と内部のコミュニケーションの原型なのかもしれない。
団塊の世代の、すくなくとも全共闘世代というか、学生っぽい集団は、実際には性行為によって組織されていた。その、ある意味で、根ともいえるロシア風共産主義も実際には同じように性行為の可換的コミュニケーションによって成り立っていたし、結局これらは内部の権力は性の権力を偽装していた。ここまで歴史が下がれば浅間山荘事件もその性の問題をクリアにした事件だったとも言えるだろう。オウム真理教の事件についても女が大きな意味を持っていた。
喫煙者の風景
私はタバコが嫌いだ。まあ、それはそういうこと。100m先で吸っている臭いにも嫌悪感がある、というくらい。
ただ、この所、歩行喫煙が目立つ。そして危ない。まあ、それはそういうだけなのだが、ちょっと変な印象もある。
彼らが離人的に見えることだ。公園の喫煙所なのでじっとタバコを吸っている若い女性もよく見かける(私は目が悪いのにそういうのを目敏く見つけるというか、孤独のオーラみたいのに敏感)が、そこにも離人的ななにかがある。
およそ、喫煙の行為など他者から見れば離人的なものだというのもわかるが、どうも、それとも違う。孤独と身体の麻痺となにかしら、奇っ怪な存在がずるっと剥けて見えるようで、怖い感じがする。科学教室の人体君みたいな。
そういえば、本屋ででかい声で携帯電話をしている人も多い。電車でも増えているようだ。あの奇妙な外界への無関心さというも、ぞっとするものがある。
こう言うと、そういう人たちを侮蔑するように取られるかもしれないので、避けるべきかとも思うが、まあ、ちょっこしいうと、人間のマインドと身体の何かのコントロールが壊れている一種の病なのではないか。
まあ、総心病みたいな私が言うのもなんだが。
ああ、良い天気だな。やらなくてはいけないことも山積だが、一泳ぎしてから散策するか。そういえば住吉様のお祭りだな。
人気のぶくまのエントリに変なことが書いてあるのを見ても
うーむ、それを言って、こっちが突っ込まれるのもやだなとか思う場合は、うじうじとスルーする。
だってねぇ。そりゃねぇ。そんなことねぇ。
ほんのり、甘く、宇治スルー
アンパサンド関連
⇒「&」「!」「?」「@」「$」の由来をまとめて解決したい… 1.日本語・英語の雑学
この「&」の正式な書き順は不明…。
回答ではないけどね参考⇒極東ブログ: "&"(アンパサンド)の正しい書き順
それと、#はハッシュ(hash)とか読みますよ、それと、!はbangとかもね。
なので、#!は、hash bang となって、shebang になまるんですよ。
案外、弾さんもご存じなかったりしてと、釣ってみる。(他にも説があるので。)
はてなは想像以上にはてなだった
エントリの標題はそういうことで、よろしく。