性行為の逆説というか

 男も女の性行為の経験の多い人間が、比較的、よく語るし、その語りには、性行為を見切ったような概観が含まれる。
 だが、滑稽なのは、そうした概観ほど古典の世界で描かれ陳腐になっているものはない。少なくとも語られた性行為の経験の概括は、つまらないものにしかなりえない。そして残るのは、彼らの多数の性行為の実践だけになるが、そこにそれだけの生と身体をかける欲望の意味が、逆説として性行為の意味から遠ざけてしまう。
 山本夏彦翁も言っていたが、たくさんの女の経験があるといっても、一人で千人分を薄めたのようなものでしかないという面もあるだろう。まあ、そのあたりの予感で、引き返すか、およそそういう世界と無縁になるべく定められた凡人が多い。
 ふと思ったのだが。
 これだけ人間種が性行為の可換性を持っているのは、遺伝子や進化という枠組みより、社会の臨界と内部のコミュニケーションの原型なのかもしれない。
 団塊の世代の、すくなくとも全共闘世代というか、学生っぽい集団は、実際には性行為によって組織されていた。その、ある意味で、根ともいえるロシア風共産主義も実際には同じように性行為の可換的コミュニケーションによって成り立っていたし、結局これらは内部の権力は性の権力を偽装していた。ここまで歴史が下がれば浅間山荘事件もその性の問題をクリアにした事件だったとも言えるだろう。オウム真理教の事件についても女が大きな意味を持っていた。