ブログと限らないが書けば書くほど孤独になる面はある

 それはそれでしかたないのだろうなと割り切っているし、その折りごとに、孤独に向き合ういいチャンスにするしかない。しかし、俺はどうしてこんな地獄にいるのだろうと思う。ただ、幸いにその地獄から福音をもたらすような仕事はしない。そういうことができる能力がない。そうされている方を私はブログの世界で数名知っているが、あえて言及しない、うまくエールが届けばいいと思うが。メールなりでエールを送るというものでもないだろう。
 孤独には悪の臭いがする。私は若い時にはより善なる人間になるべきだと思っていた。たぶん、それは愛情との取引だったのではないかと思うし、実際には混乱し小悪をまきちらしていた。傲慢でもあった。今でも傲慢ではあるのだろうが、あのころは傲慢というのがよくわからなかった。
 愛は、というと違うが、恋愛は人を悪にする。また美は悪を免れない。その本質に悪があるのかわからないが、恋愛の陶酔、美の陶酔は悪を不可欠としていることは確かだし、そこからできるだけ避けて生きるのが、生きたいのであれば、生きる術ともいうべきだろう。が、人は、そういう悪に落とされるとでもいうようなありかたに置かれることがある。ティリヒはそうした悪の力にも存在の力を見ているようだし、彼自身が、恋愛の陶酔、美の陶酔と無縁な人ではなかった。
 ティリヒはこう言ってもいいかなと思うがその組織神学の価値よりも、彼の晩年の説教の実践のなかにその本質があるのではないか。ただ、その側面が大きく大衆を巻き込むことはなかったので見えづらい。
 その点、と、私は蓮如を思う。蓮如の巨大さは不気味なほどだし、その巨大さを否定することは不可能だろう、が、そのお文などから見る思想性やその態度はそれほど明確ではない。蓮如もまた説教の実践性のなかに何かあった。
 蓮如は、物を言え、物を言え、物を言わざるは恐ろし、だったか、そう説いて、人を組みにして語らせた。ブログはある意味で、そうした蓮如的な活動でも結果的になりうる。ネットを使った犯罪というのはある一定以上減らないし全体に連動するだろうが、ブログなどに撒き散らされる悪意というのはそれが語られる分だけ、なんというか間抜け感が漂うし、悪の本性を剥き出しにするものでもない。言葉は肉体になろうとするが、肉体にはなりきれないからだ。肉体こそが悪を、陶酔を、美を、恋愛を可能にする。主はだから受肉せざるをえなかった。
 私はそうした渦中にいる。痛みはあるし、痛みをこじらしもする。愚かだ。