日経社説 親日の輪を広げる発信力を
ま、イメージなんかどうでもいいから、将来のためのガツンとした親日家というか知日家を作るべくカネかけろよと思う。いや、そうでもないか。日本に生命力があれば知日家は自然にできる。
朝日社説 東ティモール―国づくりの正念場だ
先週、ハワード豪首相が来日した際、国連PKOなどの分野で日豪の協力を深めることが合意された。東ティモールはその最初の試金石といえる。安倍首相は、東ティモールの事態沈静化を求める強いメッセージを出すべきだ。
朝日は本当にそう考えているのでしょうかね?
参考⇒BBC NEWS | Asia-Pacific | Mob torches homes in East Timor
ま、お前さんがいて良かったとお父様は思っていたでしょう
⇒3月16日 : 3月16日
54歳かぁ。つらいな。
こんとこなんとなく思うのだが(今朝の説教)
若い子でちゃんと普通の挨拶をする子をみると、男女問わず、あ、この子はいいなと思う、いいなというのは、別にそれほどの思い入れではないけど。
で、なんとなく思ったのだが。
普通に普通の挨拶ができるようになれば、普通に社会に生きていけるようになるのではないか。根拠レスで言うのだけど。
非モテとか負け犬とか、ま、それで解決できるわけでもないだろうし、孤独というのは云々だが、あれ、普通に挨拶できないっぽいと思うことがある。で、普通に挨拶するくらいな人間がもっと増えるとよいのではないか。
なんか、馬鹿みたいなことを書いているようだが。
昔、某会社で仕事をしていたとき、知らなかったのだが、私はけっこう評判がよかったことを思い出した(そのうち化けの皮が剥がれたのだけどね)。朝一番近く出勤して、大人、とくに掃除のおばさんにきちんと挨拶する。あとで知ったけど、というか意外と一般的にそうだけど、お偉いさんというのは掃除のおばさんと仲がよいのであった。
ま、この手のこと(普通の挨拶)は、若いと、嘘付いているみたいに思えるが、照れずに機械的にやっとけと思う。それだけでけっこう人生違うと思う。すべてよいわけではないけど概ね良いし、おっさんやおばさんになって普通に挨拶もできない人間になったらそれはなと思うが、が、そういえばそういう人も増えているか。
これを「進化」と呼ぶあたりがGigazineクオリティ
これ⇒人類の進化を1枚の画像にしてみる - GIGAZINE
追記
標題は変更されました。
記憶と記憶のようなもの
先日リニューした新宿のジュンク堂でぼんやりとしていたら、村上春樹のコーナーがあり、あまり本はないなぁ、文庫本になっているからかと思いつつ、つらつら背を見ていると、あれというのを発見。
あれ⇒「 ‘THE SCRAP’―懐かしの1980年代: 本: 村上 春樹」
この標題「懐かしの1980年代」とあるから、現代だとべたにそう受け止めてしまうけど、この本、出たのは、「文藝春秋 (1987/01) 」つまり、まだまだ80年代渦中だった。私はこれを初版で読んでいるけど、たしか、現代の80年代ももう懐かしの時代だよねみたいな諧謔のノリで、カレン・カーペンターの死が痛ましかった。
くどいけど、「懐かしの1980年代」はアイロニーだったのだ。そして、80年代という現代を生きつつそれが「懐かし」になっていく奇妙な時間というか、時間のどん詰まりのようなものを感じていた。
90年代に入り、バブルがあって奇妙な絵が出てしまったからどんづまり感は取り敢えず一掃されたがごとくだが、その後の停滞のどん詰まり感は、実は80年代からあった。
ま、異論を言う人はいるだろうけど、ロックは70年代で終わった。80年代はその残務整理みたいなものだった。テクノも残務みたいなもので、初期のテクノとか聞くと私なんぞ鬱を発症してしまいそうになる。これって、みたいな。テクノで救われているのはかろうじてアナログな部分だけだ。ま、どうでもいいけど。
90年代に私は東京から消えた。日本から消えたみたいな印象もある。ま、消えたというか、震災がありサリン事件があった。それらは私には映像だった。もっとも、映像だったからそれがわからないわけではなかった。あの空間、サリン事件の空間に生きていたのだから。
そして懐かしの2000年代。どうでもいいや。気が付くと、50歳にならんとしている自分がいて唖然とする。
私は80年代をすでに70年代の悪いコピーのように、あるいは残務整理のように思い出す。そして70年代を60年代の劣悪コピーのように思う。私は57年生まれだから、そこまでしか記憶が辿れないはずだが、これだけ生きて半生記の時間を抱え込んでみると、それなりに50年代のことも記憶のようなものを持つ。40年代も。つまり戦争と戦後。さらに私は昭和初期から祖父母の大正・明治時代も、身体的な記憶の延長的に感じられるようになる。
生きているというのはこういうことかなとも思う。
レーニンがしょうもない偶然のクーデーターをロシア革命にした。そしてソ連が生まれ、そして壊れた。ソ連の生成と消滅は70年間程度であり、実は短いものだった。私はスプートニクと同時に生まれ、そして私は現物そっくりのスプートニクも見たことがあるが、科学主義少年の私はそのままがソ連的でもあった。どうでもいいがサイボーグ009にソ連を感じない世代も多いだろうし、アンパンにも。ま、どうでもいい。JISになぜキリル文字が多いか知らない世代も多いだろう。まったく、どうでもいい。
1920年代が感じられるようになると、もう一つのアメリカというものも感じられるようになる。で?
で、よくわからない。ただ、私は歴史を感じつつ生きている。
不思議なもんだと思う。
アマゾンの古書が充実してから
古書店巡りが減った。
それでもたまに街を散歩して古書店を見つけると入る。ときたまめっけものを発見する。ただ、その程度でめっけられるのは、アマゾンの古書よりディスカウントくらいなものだ。
アマゾンの古書が充実していてうれしい。無くした本や探していた本がほいとみつかる。若干プレミアムが付いているのもあるが、まあ、いいだろう。
昨日の⇒finalventの日記 - 自殺する前に読みたい本10冊
でこれがプレミアムだった。
⇒「 なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記: 本: H.S.クシュナー,斎藤 武」
出版社/著者からの内容紹介
幼い息子が奇病にかかり10余年の命と宣告された-理不尽と思える不幸にみまわれた宗教者(ラビ)が絶望の淵で問う.神とは,人生とは,祈りとは何か.悲痛の体験をもとに旧約聖書を読み直し,深い叡知と生きる力を掴みとる.
内容(「MARC」データベースより)
突然の不幸にみまわれた宗教者(ラビ)が、悲痛な体験と旧約聖書から学びとったこととは何か。深い叡智と慰めに満ちた書。「ふたたび勇気をいだいて」(ダイヤモンド社 1985年刊)の改題改訂。〈ソフトカバー〉
ま、5000円くらい出せば購入はできるが、そこまでして買うべきものか悩むだろう。
で、これをリストから外すかちと考えた。
残しておくことにした。
自殺しにくくする一興かなと。
ま、あまり大枚をはたいて買わなくてもいいから、図書館でざっと読まれるといいと思う。
追記
復刻されていた。
⇒自殺前お勧め本リスト改訂 - finalventの日記
こういう闇討ち的なものも面白いなとは思うけど
こういう⇒瀧澤くんとやらは典型的なパーである。
もうちょっと私も血気があったら、あいつとかあいつとかあいつとかみんーんな闇討ちにしてやろうとか思うけど、し・な・い・よ。
あれなんだよ、「瀧澤くん」って知らないんでそれは除外として、一般的に「典型的なパー」というのは一種のマシーンみたいなものというか、フナムシみたいなものというか、相手にしても無駄なんだよね。沸いてくる沸いてくる。そういう言論構造のマシーンなんだから。で、そういうの相手にしていると、自分もマシーンになっちゃうんだよ。
で、私について言えば、私の敵対者というか、悪の臭いのするやつっていうのは、それなりにたいしたもんだよと私は思いますよ。悪な分だけ。っていうか、私がこいつら悪だなと思う主観にすぎないんだけどね。
悪というのは、誘惑がその本質、いやその本質的機能というべきかな。魅了があるわけですよ。うぜぇうぜぇうぜぇと思うだけ負けてんのね、俺。初手で負けてたら、楽に勝てるわけないよ。
ま、どうでもいいけど。
闇討ちは、止めとけ。
量刑の相場が変わったというのはあるかも
大石先生⇒大石英司の代替空港: ネット炎上
一方でひとつ言えるのは、マーケットのあり方に関して、司法界に、法整備が追い付いていない、という認識があって、ならば、今の法律内で出来ることは何か? と問うた時に、それは量刑相場を引き上げることなんですよね。
今までは、逆立ちしても執行猶予で済んでいたものが、実刑という形で相場を引き上げることになって、堀江はその第一号になった可能性が高い。経済事犯がますます複雑化して、しかも増えていく。市場の一般化ということを考えても、量刑相場が今のまま据え置かれる可能性の方が低い。
その辺りをシビアに捉えないと、高裁でもやっぱり実刑でしょう。一審の弁護団は、マスコミ戦術は上手かったけれども、法廷戦術は稚拙だった。
まあ、そうかなという感じもしている
リフレ派どうこうではなくてね。
日本には労働市場がないし、事実上の特権企業がある。
⇒トンデモ経済学家元追求委員会vol.8@経済/経済学@いちごびびえす
リフレ派の議論の中核は、不況下における設備の遊休や失業を克服するため、主として金融緩和を通じて有効需要を創出すること。デフレから脱却しマイルドインフレ(数%程度)にとどめながら。彼らの議論では全要素生産性の話は出てこない。
林本における多数の実証分析によって、資本効率が90年代に低下したのは、「ゾンビ」企業に資金が滞留したと考えられること、労働生産性が低下したのは、長期雇用による「労働保蔵」で業績の悪化した企業からの労働移動が妨げられたためであることが示された。
90年代の長期停滞はトレンドからの乖離ではなく、トレンド自体の低下であったことが示されたのであり、貨幣的な手段によって物価上昇率のみをコントロールしても景気後退は防げなかったということが一連の実証分析が示唆することがら。
蛭子能収先生、それは違いますだ
⇒東大の「産業総論」で露呈 日本人の知力崩壊が始まった - ビジネススタイル - nikkei BPnet
コンピュータはかけ算すら足し算の繰り返しとして計算する。そういう数学の基礎中の基礎をちゃんと理解しているかどうかが最も重要なのだ。いいかえれば小中学校時代に算数・数学の基礎をしっかりやらせるかどうかが決定的に重要なのだ。
蛭子能収先生、それは違いますだ。
これを大学の一、二年生の教科書に使える先生が少ねーからですだ。
計算機プログラムの構造と解釈: ジェラルド・ジェイ サスマン,ジュリー サスマン,ハロルド エイブルソン,Gerald Jay Sussman,Julie Sussman,Harold Abelson,和田 英一 |
英語が読めれば無料で読めます⇒Structure and Interpretation of Computer Programs
ついでに。
参考⇒Javaスクールの危険 - The Joel on Software Translation Project
1900年には、ラテン語とギリシア語は大学で必須科目だった。それが何かの役に立つからではなく、教養のある人間に必須なものだと考えられていたためだ。ある意味で私の議論は(あの4人のような)ラテン語支持者の議論と違わない。スコット・ベイカーが書いている (http://www.promotelatin.org/whylatin.htm)。「ラテン語は精神を鍛える。記憶力を鍛える。ラテン語の文章を解読することは、思考の訓練であり、とても知的なパズルであり、論理的思考のためのよい入門になるのだ」。しかし今ではラテン語を必須科目としている大学は1つもない。ポインタや再帰はコンピュータサイエンスにおけるラテン語とギリシア語になるのだろうか?
ポインタを使うプログラミングは今日書かれるコードの90%には必要とならず、製品コードにおいてははなはだ危険なものであるということは素直に認める。その通りだ。そして関数プログラミングは実務ではほとんど使われていない。それも認める。
しかしそれでも、最もエキサイティングなプログラミング仕事ではこれらは重要なものなのだ。たとえばポインタなしにLinuxカーネルで作業することはできない。Linuxのコードを1行も理解することはできず、実際ポインタの理解なしにはどんなオペレーティングシステムのコードも理解できない。
関数プログラミングを理解していなければ、GoogleをあれほどスケーラブルにしているアルゴリズムであるMapReduce (http://labs.google.com/papers/mapreduce.html)は発明できない。
しかしポインタと再帰の明らかな重要性以上に重要なのは、これらの学習から得られる精神的な柔軟さと、これらを教えている授業からふるい落とされないために必要な精神的態度が、大きなシステムを構築する上で欠かせないということだ。ポインタと再帰には、ある種の推論力、抽象的思考力、そして何よりも問題を同時に複数の抽象レベルで見るという能力が要求される。そしてポインタと再帰を理解できる能力は、優れたプログラマになるための能力と直接的に相関している。