記憶と記憶のようなもの

 先日リニューした新宿のジュンク堂でぼんやりとしていたら、村上春樹のコーナーがあり、あまり本はないなぁ、文庫本になっているからかと思いつつ、つらつら背を見ていると、あれというのを発見。
 あれ⇒「 ‘THE SCRAP’―懐かしの1980年代: 本: 村上 春樹」
 この標題「懐かしの1980年代」とあるから、現代だとべたにそう受け止めてしまうけど、この本、出たのは、「文藝春秋 (1987/01) 」つまり、まだまだ80年代渦中だった。私はこれを初版で読んでいるけど、たしか、現代の80年代ももう懐かしの時代だよねみたいな諧謔のノリで、カレン・カーペンターの死が痛ましかった。
 くどいけど、「懐かしの1980年代」はアイロニーだったのだ。そして、80年代という現代を生きつつそれが「懐かし」になっていく奇妙な時間というか、時間のどん詰まりのようなものを感じていた。
 90年代に入り、バブルがあって奇妙な絵が出てしまったからどんづまり感は取り敢えず一掃されたがごとくだが、その後の停滞のどん詰まり感は、実は80年代からあった。
 ま、異論を言う人はいるだろうけど、ロックは70年代で終わった。80年代はその残務整理みたいなものだった。テクノも残務みたいなもので、初期のテクノとか聞くと私なんぞ鬱を発症してしまいそうになる。これって、みたいな。テクノで救われているのはかろうじてアナログな部分だけだ。ま、どうでもいいけど。
 90年代に私は東京から消えた。日本から消えたみたいな印象もある。ま、消えたというか、震災がありサリン事件があった。それらは私には映像だった。もっとも、映像だったからそれがわからないわけではなかった。あの空間、サリン事件の空間に生きていたのだから。
 そして懐かしの2000年代。どうでもいいや。気が付くと、50歳にならんとしている自分がいて唖然とする。
 私は80年代をすでに70年代の悪いコピーのように、あるいは残務整理のように思い出す。そして70年代を60年代の劣悪コピーのように思う。私は57年生まれだから、そこまでしか記憶が辿れないはずだが、これだけ生きて半生記の時間を抱え込んでみると、それなりに50年代のことも記憶のようなものを持つ。40年代も。つまり戦争と戦後。さらに私は昭和初期から祖父母の大正・明治時代も、身体的な記憶の延長的に感じられるようになる。
 生きているというのはこういうことかなとも思う。
 レーニンがしょうもない偶然のクーデーターをロシア革命にした。そしてソ連が生まれ、そして壊れた。ソ連の生成と消滅は70年間程度であり、実は短いものだった。私はスプートニクと同時に生まれ、そして私は現物そっくりのスプートニクも見たことがあるが、科学主義少年の私はそのままがソ連的でもあった。どうでもいいがサイボーグ009ソ連を感じない世代も多いだろうし、アンパンにも。ま、どうでもいい。JISになぜキリル文字が多いか知らない世代も多いだろう。まったく、どうでもいい。
 1920年代が感じられるようになると、もう一つのアメリカというものも感じられるようになる。で?
 で、よくわからない。ただ、私は歴史を感じつつ生きている。
 不思議なもんだと思う。