日経 春秋(2/18) : NIKKEI NET:社説・春秋 ニュース

月の満ち欠けに基づく太陰暦の慣習が続くのはなぜか。横浜中華街の渉外役を務める王忠福さん(37)に聞くと、逆に笑って問い返された。「日本人が旧正月を祝わないのはどうして?」。日本が太陽暦を採用したのは明治6年旧正月とは、近代国家の建設を急ぐ歴史に埋もれた、伝統の忘れ物の1つであろう。

 1 日本人でも旧正月を祝う人を私は間近で見てきた。日本人は多様だ。
 2 建国記念日旧正月であった。
    ⇒極東ブログ: 建国記念の日というのは春節、つまり旧正月なのだ
 3 公制度の暦法旧正月の衰退は直接には結びつかない。

日経社説 ガス事故が問う安全の原点

 もちろん利用者にも自己責任はある。だが、これから高齢化が進むとともに利用者の注意力が低下し、装置の複雑さについていけなくなる例が増えることも考慮すべきだろう。利用者側の変化に配慮した製品の設計や安全対策を企業は心がけてほしい。社会的弱者の立場で製品の設計を改良するユニバーサルデザインは世界の潮流でもある。ガス器具のように人の生命を左右する製品であれば、なおさら細心の配慮が必要だ。

 「利用者の自己責任」はブログなどではタブー化しつつある。それはそれとして大衆の生活環境の変化もあるかとも思う。このあたりは、時代の感性もないとわかりづらい。
 とはいえフールプルーフの安全性は今後より重要になるのは確か。

朝日社説 女性の活躍 ガラスの天井を打ち破れ

 ⇒極東ブログ: 参院選であまり問われなかった女性議員の問題
 ⇒極東ブログ: 「中国男女平等と女性発展状況」白書を巡って
 ⇒極東ブログ: 女性をパート労働者にせよと朝日新聞は言う?
 ⇒極東ブログ: 世界経済フォーラムによる日本の男女格差調査
 ⇒極東ブログ: 世界で最も影響力を持つ100人の女性

朝日社説 格差是正 失われた世代に支援を

 だんだん「失われた世代」が実体的に語られるのだが、そうなのだろうか。もちろん、「就職氷河期といわれた90年代に就職活動をした25歳から35歳ぐらいの層だ」がないと私が言いたいわけではない。
 が、これらはここで底が付くわけでもなく、ある意味、これからの若い人はその意味ではずっと「失われる」のではないか。というか、特定の事実上の権益にある労働者以外は皆「失われた」のではないか。

なんのためにブログを書くかといえば

 自分を理解してほしいからでしょ、ということでもいいと思う。
 ただ、自分が孤独で愛してほしい、関心をもってほしい、というほどでもない。
 っていうか、それだけのエネルギーもないのだけど、歳取っちゃってさ。
 でも。
 卑近な例で言えば。
 これって問題でしょ
  たとえばこれ⇒極東ブログ: ダルフール危機からチャドにおけるジェノサイドの危険性
 これって美味しいよ。
  たとえばこれ⇒極東ブログ: 金時豆フェジョアーダ(Feijoada)
 で。

極東ブログ」にしろ、結局のところfinalventさんが何を言いたかったのか、いつも分からないんです。

 と言われても、私のエントリの全てを理解しようとしなくていいのでは。
 それに。
 ダルフール危機は人類にとって大きな課題なんだ、というのは、それほど「結局のところfinalventさんが何を言いたかった」というほど理解が問題なのでしょうか? ホロコーストがありルワンダ・ジェノサイドがあり、それらを人類が教訓にしたというならそれほど理解しづらいことでもないと思うのだけど。私が言いたいのは今進行しているジェノサイドを止めたいと願う、というだけですよ。
 「金時豆フェジョアーダ(Feijoada)」はハナ毛さんのようにただ言葉面のちゃちゃを入れる前に実際に作ってもらえれば、へぇ、美味しい、こういう味があるのかと、わかってもらえると思うし、わかるっていうのはそういうこと。「結局のところfinalventさんが何を言いたかった」というほど難しいことではなくなると思う。もっとも、うまく作れなかったら八つ当たりしてもいいですよ、そのときは、私に。でも、そのとき、たぶん、8割の人は、うめーと言ってもらえると私は確信している。と同じように、ダルフール危機が問題なのだということもわかってもらえないわけはないと確信している。
 で。
 なぜ、「金時豆フェジョアーダ(Feijoada)」なのか。
 あまりこう言うと種明かしみたいな下品になるのだけど、ブラジルの人のことを考えてほしいという思いがある。私はこの料理を日本にいるブラジル人を通して知った。この料理のテイストには、歴史そのままではないけど、日本とは異質なある感性を要する。
 私の食い物エントリに、不味そうとかいう人には、私が、旨い不味いじゃないところを書きたいのだという思いは通じていない。
 でも、実際に作って食ってみようとしない人には、そもそも通じない。
 でも。
 ブログなんてものは自由でいいと思う。
 なんのためにブログを書くかといえば、自分を理解してほしいからでしょ、なのだけど、理解されなくてもしかたない。

貧しいものを食いなさいよ

 と思うことがある。
 もちろん、これはうまく言えてない。貧乏は誰もいやだし。
 そうじゃなくて、貧しい人が食ってきたものは、食ってみろよと思う。貧しいなかでなんとか必死に食えるものにしようとする試みのようなものが分かればいい。
 魯山人が、金持ちやら偉そうな人に、田螺を食わせたかった。もちろん、魯山人はあれがうまいと思っていた。でも、田螺は貧しい食い物から発している。
 もうちょっと言うと。
 自転車や自動車に乗ってないてないで歩けよと思う。
 エロ見てないで略。

ヘッセは「知と愛」をまず読んでそれから関心があれば他も読めばいいのですよ

 ⇒「 知と愛: 本: ヘッセ,高橋 健二」
 素人評。

知性と感性の出会い, 2005/6/28
レビュアー: umschau (東京都文京区) - レビューをすべて見る
 ヘッセの作品というと『車輪の下』や『春の嵐』といった初期の青春小説ばかりが取り上げられるが、その実、ヘッセの真価が発揮されるのは『シッダールタ』以降であり、彼の文体・思想性の高みはこの『知と愛』をもって完全に結実する.
 物語は修道院をとび出した愛の人ゴルトムントの放埓な人生を中心に幻想的なタッチで描き出され、彼の旅は修道院に残り謹厳な日々を生きた知の人ナルチスとの邂逅によって終りを告げる.
 彼らの対照的な生涯はただ二人の人間のコントラストというだけでなく、知性と感性との鬩ぎ合いといった様相を呈し、ぶつかり合う二つの真理として光芒を煌めかせる.
 果たしてヘッセは知の人であり、全篇を彩るゴルトムントの華やかな道程は実のところ作品の本旨ではない.そこに、この小説の妙味があるといえる.
 およそ長きにわたって閑却されていたナルチスという人の思いは、語りの位置にあって読者とともにゴルトムントを見つめ続ける.ナルチスの迷いも、苦悩も、絶えずゴルトムントの人生に寄り添っているのである.
 しかし、この小説はひとつの芸術としては曇りなく完成されていながらも、知性と感性の攻防という最大の問題を読者の心中に残したまま幕を下ろしてしまう.
 ナルチスのなかで火を点した愛への求めは、後にヘッセ最後の長篇『ガラス玉演戯』へと導かれていく.

 最後の一文は私はちょっと違う感想を持っているけど、「 ガラス玉演戯: 本: ヘルマン ヘッセ,Hermann Hesse,高橋 健二」が素晴らしい点については異論はない。読みにくいだろうと思うけど。
 「知と愛」が読めたら、次は。

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荒野のおおかみ: ヘッセ,Hermann Hesse,高橋 健二
 あと。
 Amazon.co.jp: シッダールタ: 本: ヘッセ,高橋 健二
 は、手短で面白いけど、こ煩く読む人が多いのではないか。
 新訳があった。
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シッダールタ: ヘルマン ヘッセ,Hermann Hesse,岡田 朝雄
 「シッダールタ」の真価は、女の身体が残した実の子というものの感触にある。ほんとうはそこをもっときっちり描けば文学になったのだろう。
 「ガラス玉演技」は優れているけど、ヘッセという人は、文学からは逃げた人かもしれない。
 でも、「知と愛」でもそうだけど、ヘッセという男は、女の肉体を非常に欲した。その意味合いをかなり深く問いつめたのだと思う。ちょこっというと、消えてしまった?noon75さんよりも。

「大地の牙」

 というのがあった。
 ネットを引いたら情報はある。が、読売新聞の解説を引いておこう。
 事件としては、「連続企業爆破事件」となる。

連続企業爆破事件
 四十九年から五十年にかけ、海外進出企業が相次いで爆破された事件。四十九年八月三十日、大道寺被告らの東アジア反日武装戦線“狼”は、東京・丸の内の三菱重工ビル前に時限式のペール缶爆弾二個を仕掛けて爆発させ、八人が死亡、百六十五人が重軽傷を負った。“狼”の爆弾闘争に呼応して、斎藤和(自殺)らの“大地の牙”や黒川被告らの“さそり”も企業爆破を開始、五十年五月十九日に一斉逮捕されるまでの間、三グループで計十七件の爆破事件を重ねた。この間、四十九年八月十四日には、“狼”が那須から帰京される天皇の特別列車を荒川鉄橋で爆破しようと計画(虹作戦)したが、未遂に終わった。
 この事件で七人が爆発物取締罰則違反や殺人罪などで起訴されたが、佐々木規夫、大道寺あや子、浴田由紀子の三被告は日本赤軍のクアラルンプール、ダッカ事件で、人質と引き換えに法務大臣超法規的措置により国外釈放となった。

 印象的な事件としては、「狼」によるとされる三菱重工ビル前爆破だった。
 昭和48年8月30日、市民生活の場の爆破により、八人が死亡、百六十五人が重軽傷を負った。
 私は、そんな子供でもないせいもあり、この事件は印象深く思った。
 と、「市民生活の場」と私は書いたし間違っているとも思わないが、市民8人を殺し165人に傷を負わせたこのテロ行為の主体は、日本資本主義といったものを敵にしていた。しかし、市民との関係を結果から見れば、ただのテロだった。むしろ、それはいつか市民社会そのもに牙をむくだろうことはあの時代を知る人なら予想できたことだった。
 市民テロを行ったのは青年であった。なにが日本の普通の青年を市民テロに駆り立てたのか。その根は、日本の歴史・社会にあり、それを見つめなければ、それは歴史のなかに蘇生する。もちろん、それは、我々日本人が「反省」するといったものではない。深く問わなくてならないものだ。正しく、問わなくてはならないものだ。
 ⇒東アジア反日武装戦線 - Wikipedia

特徴として、昼間は普通の会社員や喫茶店店員として働き、秘密のうちに活動するという方針をとることで公安の目をくらませようと計画していたことにある。自宅アパートの床下を掘って地下の爆弾製造室を作っていたメンバーもいた。しかし、結局は、思想や主張の内容から目星をつけられた一名に対する尾行捜査により1975年5月19日、芋づる式に逮捕され壊滅することとなった。

 ここでは一名の追跡が意味を持った。ハズレの一名ではなかったからだ。
 事件は遠い昔になったようだ、というのも、中越地震の体験を文集は「大地の牙」と題された。その名前がもはやあの事件を連想させない。
 02年7月4日、連続企業爆破事件で、爆発物取締罰則違反や殺人未遂などの罪に問われた浴田由紀子被告(当時51)の判決公判が東京地裁であった。二十七年ぶりの判決であった。

地上波デジタル

 ⇒はてなブックマーク - NIKKEI NET:地デジチューナー、低所得者に無料配布・政府と与党が検討
 ⇒池田信夫 blog 国営化される民放
 問題がよくわからないのだけど、これは仕組み的には、コピーガードになるのではないかなと思う。
 あと、これで実質各局が多チャンネルになるのと、文字放送とインターネットの組み合わせも可能になるのかとも。
 全体的にハイビジョンにシフトしていく市場ニーズ形成には好ましいというのもあるかもしれない。
 地デジ移行は無理とかハイビジョンは不要とか思っていたけど、現状の日本が維持できればそう難しい移行ではないかなと思いつつある。

ぶくまより なんつうかネットのこと知らなかったんだろうな

 これ⇒はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):きっこが「2ちゃんねる等であたしの悪口を書いたやつは順番に賠償請求してやる」と宣言
 なんつうかネットのこと知らなかったんだろうな。
 まあ、それが強みだったのかもしれない。
 っていうか、訴えてやるっていうのが、ぎざかわゆす。

「東京ラブストーリー」の思ひ出

 ⇒「東京ラブストーリー」の東京とは? ■80年代後半〜90年代前半を回顧するブログ
 私はコミックのしか読んでない。
 赤名リカはアフリカ育ちの帰国子女という設定だった。
 ケニヤだったのかな。
 話はけっこうめちゃくちゃだった。