なんのためにブログを書くかといえば

 自分を理解してほしいからでしょ、ということでもいいと思う。
 ただ、自分が孤独で愛してほしい、関心をもってほしい、というほどでもない。
 っていうか、それだけのエネルギーもないのだけど、歳取っちゃってさ。
 でも。
 卑近な例で言えば。
 これって問題でしょ
  たとえばこれ⇒極東ブログ: ダルフール危機からチャドにおけるジェノサイドの危険性
 これって美味しいよ。
  たとえばこれ⇒極東ブログ: 金時豆フェジョアーダ(Feijoada)
 で。

極東ブログ」にしろ、結局のところfinalventさんが何を言いたかったのか、いつも分からないんです。

 と言われても、私のエントリの全てを理解しようとしなくていいのでは。
 それに。
 ダルフール危機は人類にとって大きな課題なんだ、というのは、それほど「結局のところfinalventさんが何を言いたかった」というほど理解が問題なのでしょうか? ホロコーストがありルワンダ・ジェノサイドがあり、それらを人類が教訓にしたというならそれほど理解しづらいことでもないと思うのだけど。私が言いたいのは今進行しているジェノサイドを止めたいと願う、というだけですよ。
 「金時豆フェジョアーダ(Feijoada)」はハナ毛さんのようにただ言葉面のちゃちゃを入れる前に実際に作ってもらえれば、へぇ、美味しい、こういう味があるのかと、わかってもらえると思うし、わかるっていうのはそういうこと。「結局のところfinalventさんが何を言いたかった」というほど難しいことではなくなると思う。もっとも、うまく作れなかったら八つ当たりしてもいいですよ、そのときは、私に。でも、そのとき、たぶん、8割の人は、うめーと言ってもらえると私は確信している。と同じように、ダルフール危機が問題なのだということもわかってもらえないわけはないと確信している。
 で。
 なぜ、「金時豆フェジョアーダ(Feijoada)」なのか。
 あまりこう言うと種明かしみたいな下品になるのだけど、ブラジルの人のことを考えてほしいという思いがある。私はこの料理を日本にいるブラジル人を通して知った。この料理のテイストには、歴史そのままではないけど、日本とは異質なある感性を要する。
 私の食い物エントリに、不味そうとかいう人には、私が、旨い不味いじゃないところを書きたいのだという思いは通じていない。
 でも、実際に作って食ってみようとしない人には、そもそも通じない。
 でも。
 ブログなんてものは自由でいいと思う。
 なんのためにブログを書くかといえば、自分を理解してほしいからでしょ、なのだけど、理解されなくてもしかたない。