日経社説 耳が痛いフリードマン氏の言

 マネタリズムの泰斗、ミルトン・フリードマン氏が逝った。

 切隊さんが日経社説を書くようになったかと……なわけない。

洞察力と先見性に満ちた言説は米英の経済政策に大きな影響を与えた。それはまた、ケインズ主義の影響を強く受けた1990年代までの日本の政策の混迷をも予言していた。

 私の経済学への関心はフリードマンどまり。というか、あのころガルブレイスばっか読んでいた。私はこの問題で基本的に自分が矛盾していると思う。私は小さな政府を求めるのだが、フリードマン的な小さな政府というのがよいという感覚はなく、ガルブレイス的な考えがよいという感覚がある。
 放言だが、私は基本的にシニョリッジが不愉快。金本位制でええんでないのとかいう感覚がある(もちろんそれが正しいとは思わないけどね)。
 ⇒貨幣数量説の議論 : 貨幣数量説 - Wikipedia
 それでいて国家が投資に関わるケインズ流の発想はなにか本質的に正しいのではないかとも思う。
 まあ、経済学のことはよくわからない。
 そんだけのことだが、マネタリズムの考えは歴史学に応用できるかなというか、国家と貨幣との関係で歴史を考えるようになった。
 ⇒マネタリスト - Wikipedia

 日本では小渕恵三内閣に至るまで積極財政が主流だった。米英の長期の経済成長、日本の財政悪化と一時的な財政出動の効果の薄さなどを考えれば、フリードマン説の正しさが部分的ながら裏付けられた。

 小渕積極財政はなんとなく間違いということになった。昨今の地方財政を見ていてもこんなところに積極財政はあるまいという印象はもつ。しかし、本当にそうだったのだろうか、そこは少し疑問を残している、私は。

産経社説 APEC閣僚会議 重層的な経済連携に意義

 中国が主唱している東南アジア諸国連合ASEAN)10カ国+3(日中韓)構想、それに対抗する形で日本とりわけ経済産業省が熱心なASEAN+6(日中韓とオーストラリア、インド、ニュージーランド)構想は、いずれも米国、そしてAPECや世界貿易機関WTO)の正式メンバーである台湾を除外している。
 台湾を除外しているのは、中国の政治的圧力による。しかし、台湾はいまやアジア経済で大きな地位を占め、米国はアジア経済とは切っても切れない関係にある。米国、台湾を排除した形での経済連携は不自然である。

 ひどい言い方をすれば、日中が経済的にさらに取り組めば台湾は事実上その枠組みのなかに吸収され問題は消える。
 おそらく胡錦涛政権側はそのことがわかっているから、これから奇妙な親日と台湾分断工作が出てくるというか、まずは米側のロビーだろう。
 その構図が成功するか? しないと思う。その前に中国が倒れてしまうだろうし、台湾のなかに呆れるほどの不屈の精神がある。私はそうした精神主義を取らない人なのだが、李登輝には呆れる。

産経社説 特定失踪者 初の拉致認定を評価する

 単純なところでわかりやすい。

 松本さんは、北朝鮮に拉致された可能性を排除できない行方不明者を独自に調べている民間の「特定失踪者問題調査会」が「拉致濃厚」とした35人のうちの1人だ。特定失踪者の拉致認定は初めてである。
 警察当局は調査会の情報に加え、松本さんが失踪した当時の不審船の動きをさかのぼって調べたところ、日本海に北の工作船が航行していたことを突き止めた。官民の協力が実ったケースとして評価したい。

 なるほどね。

毎日社説 脳脊髄液減少症 早期救済へ積極姿勢示せ

 これはそうなのだが、類似の問題もいろいろある。
 これもひどい言い方なのだが、直せない病気というものがある。もしそうならどうしたらいのか。
 これがもっと読まれるべきかと思う。
 ⇒「 認められぬ病―現代医療への根源的問い: 柳澤 桂子」

読売社説  [GDP速報]「景気持続へ欠かせぬ消費の回復」

 企業部門の好調さが、次第に家計部門に波及し、景気拡大を支える。そんな政府・日銀のシナリオの実現が遅れていることが、一段と鮮明になった。

 マクロ経済学がぁみたいにぶいぶいされるかたもネットに多いのだが、家計部門、その消費を支えるのは予想生涯所得であり、つまりそれは基本的に長期の安定収入=安定した雇用あるいは労働市場に依存しているはず。そして、このあたりは私が経済学に疎いのだが、消費とは実質は不動産を意味しないといけないのではないか。
 若い人が「おうちどうしようか」「どこで暮らしをはじめようか」と家族のイメージを持つようにならないと日本という国のレベルでは景気の回復にはならないと思う。
 そしてそれは、もしかすると、もうダメなんじゃないか。

読売社説  [松本京子さん]「これも『北』の国家犯罪だった」

 あれま。

 また一つ、北朝鮮の非道な国家犯罪が明らかになった。

 朝日と似たような出だし。まあ、こっちがましだが。
 ただ、この問題を現時点で騒ぐのはマスコミ操作っぽい印象は受ける。

朝日社説 被害者認定 また広がった拉致の闇

 朝日新聞がよく言うよとは思うし、いまだにこの程度の認識かとも思う。

 またひとり、北朝鮮によって拉致されたと見られる日本人が増えた。

 呆れているのでふざんけなとも言わない。
 関連で。
 極東ブログにコメントもらった。
 ⇒極東ブログ: ブッシュ大統領と横田早紀江さんの面会のこと

拉致問題に関して二つの大きな誤解があります。
一つは、拉致に関し、政府の認定を受けてから救出嘆願活動をするという誤解。ほんとうは家族会の例を見てもわかるように、救出嘆願活動をしなければ、認定どころか調査もしてくれません。
もう一つの誤解は、拉致被害者横田めぐみさん達数名だという誤解です。実際は数百名です。でもまだ多くの日本人は数名だと思っています。

 これに12/16の集会の案内がある。私はたぶん参加しないだろう。そこまでの関与はしていない。
 そういえば、こうした集会によく参加していた殿下のなんとかいうブロガーがいたが消えて久しい。

晩秋、歳を思ふ

 俺は孤独に強いぞとか息巻いているのたのだがそうでもなさげ。
 俺は偽悪を絵に描いたような人間とか自省しているのだが、ぽろっとべたな善人になることが最近あって、これって、老人の性向じゃないのとか思う。
 っていうか、年寄りっていうのは、あれだ、意地悪になるか、優しくなるか、分かれてしまうなにか分かれ道があるのか。俺は救われないヤツだよと諦めていたが、善人なおもての善人のほうに入っちまうのかな(南無さんの善人ぶりもそういうものかもな)。とか、ちと思った晩秋の日であった。
 まあ、弱い人間は善人にはなれない。強い人間は悪をなしうる。ただ、悪人もまた弱い人間である。というか、この問題は難しい。ただ、歳を取る、老いるということがこうした問題の隠れたパラメーター臭い感じが実感としてきた。

いじめ問題がなくならない理由はそれが日本社会にメリットをもっているから

 いじめが悪いとか表面的に騒ぐけど、いじめは単純に言えば多数の傍観者の権力ですよ。
 傍観者を権力にしたてる学習システムが日本の権力の構造にすごいメリットを持っているから、なくなるわけなんかないですよ。
 いじめというのは、学習性無力の学習の場ですてば。
 っていうか、一種の思想学習の実践みたいなもの。
 ガッコの授業をフケるみたいに、傍観者をフケられるようにすればすこしはマシになるのだけど、っていうか、いじめ問題に関心を持たせようと騒いでいる現状が学習性無力の学習効果あり過ぎ。
 ついでに、自殺とかメディアで騒げば自殺者は増えるからWHOなんか、よせ、と言ってたはず。

どうもピンとこない

 世の中の話題も、ネットの話題も。
 とか言っているのだが、Darfur危機はまた別の局面のようでもある。ということに未だ自分は関心もっているので、自分がそう変わったわけでもないのだろう。

型とかクラスとか

 まあ、たいした話ではない。
 当たり前のことだが、型のない言語っていうのは変数に型がないから、なんでも入るわけで、というあたりで……そういう変数を使いたいっていうことは逆にクラスとかあるとおかしくなってしまうわけだなと思い直す。のわりに、Javaのクラスはままインスタンスにも使えるっぽいが。
 どうも、昨今、いろいろ教せーてもろて思うのだが、クラスとかって特に考える必要はないんでないの……というのもありかと。
 話はずれるが、こんとこの関連で昔関心を持っていたことをうっすらいろいろ思い出す。っていうか、プログラミング言語ってPascalがあればもう終わりでええんでないのとか思っていたし(まさかAlgol68が現在に影響を残すとはね)、Cってあれってマクロアセンブラでしょとか思っていたので、C++が出たとき、へぇそうくるわけとか思った。反面、SmallTalk-80とかの話題で、なるほどねとかも思ったし、他に個人的にはAPLと初等数学の関係が気になっていた。
 Javaが出たとき、ビル・ジョイっていうのは天才というより、実務肌の人っぽいし、Javaって難しく言われてわりにこれはC++の妥協の産物だなとも思った。っていうかバイトマシンてUCSD P-Systemのパクリ?とか思った。
 話はずれるが、フリードマンが死んで、あの時代の騒ぎを思い出した。サミュエルソンケインズとかちと勉強したが、まあ私なんぞは基本的にガルブレイスの信奉者というかべたな素人だしドラッカーとか読んでいたし。
 ま、いろいろ20代30代でほったらかしたことを昨今ふと思い出す。川端文学なんかもそうした忘れ物の部類か。
 なんのことはない若いときは暇だったんだなということかもしれないし、きちんと勉強しない知識は根無し草になるということだが、素人、そんなにきちんと勉強するものでもないか。などなどと。
 どうでもいいけど、Pascalの解説を見ていたらお勧めにこんなものが、っていうか、愉快な誤爆か? (どうでもいいがポニーテールには萌える。)
 

cover
D'artiste: Character Modeling (D'artiste Digital Artists Master Class): 洋書: Francisco A. Cortina,Pascal Blanch,Steven Stahlberg
 
 ⇒Pascalとは - はてなダイアリー

といった特徴がある一方で、これだけの言語でありながら処理系の負担が小さいという特徴があった。例を挙げるとPascal P4コンパイラはコメント込みで4000行しかない。処理系が小さく、かつフリーで手に入ることがあったことから、Pascalは多くの派生言語を生み出した。

 ほいで。

Borlandの創設者Philip KahnはETHでN.Wirthの教えを受けたという。

 そして、Object PascalからDelphiかぁ。(どうでもいいけど、Philippe ね。)
 そういえば、先日、プログラマさんに何使ってんの?ときいたら、Delphiと言っていた。Javaじゃないの?と訊くと、Delphiでしょとのこと。
 はてなを見ていると。
 ⇒俺 - BorlandのIDE部門(DevCo)が「CodeGear」として分社化

Borland衰退の直接のきっかけはMSによる技術者の大量引き抜きなのだろうが(Delphiの設計者がC#を設計したのは周知の通りだ)、Borland自身も「Borland IDEの特徴はDelphi言語だ」と勘違いしていた節がある。多少もてはやされたからといって、Delphiなど単なる言語仕様でしかない。Borlandは早々にVCLを発展させ、クラスプラットフォームかつ言語非依存のフレームワークを構築すべきだった。しかし、Borlandはその足がかりであるKylixを捨ててしまう。

 まあ、そうだったんでしょうね。

Philippe Kahnは最近どうしているかと思ったら

 ⇒フィリップ・カーン - Wikipedia
 ⇒Philippe Kahn - Wikipedia, the free encyclopedia
 ⇒Fullpower Technologies, Inc
 へぇ。
 ⇒Fullpower Technologies, Inc - Pervasive Communications

We were not meant to be chained to our computers in our Dilbert cubicles. Having millions of white-collar workers commute to work every day only to sit for eight hours chained to their computers is something right out of a Kafka novel.

 うーん、なんか、このイカレた感じがいいなぁ。
 話は変わるが、あれからもう10年近い。
 ⇒MSDN インタビュー ‐Anders Hejlsberg、WFC の設計を語る

未来の教育?

 これを読んだ⇒【正論】梅田望夫 「IT革命」から「I革命」の時代へ-コラむニュース:イザ!

 今の中学1年生が大学を卒業して社会に出るのは2016年だ。小学1年生ならば2022年だ。その頃に「私たちと情報の関係」はどうなっているのだろうか。そんな想像力を働かせないと、子供たちにどんな教育をすべきか見誤る可能性がある。

 反論とかでは全然ないが、全然違った方向のことを思った。
 昔、私が師事した先生だが、障碍者の子供の母を集めた小さな講演で、ふと思い出したように、「みなさん、茄子の花を見たことがありますか」と言って見回した。挙手を求めてはいなかったが、茄子の花を見たことがない人が多いように思えた。そして、先生は、子供たちに「茄子の花を見せてやってください」と言った。「学ぶことは本物を見るということです。本当の物を見るということなのです」と。
 私は茄子の花が好きだ。あれは可憐で美しいものである。

 茄子の蔕にはそういえば棘がある。ネットを見回したらこんなのがあった。
 ⇒【おばか】 綺麗な茄子には棘がある : イヌスタブログ 200605
 そして、茄子と私は痛みという官能的な関係になる。知るというのはそういうこと。
 情報がどんどん洗練されていく。茄子の花の映像も棘の経験の情報も出てくる。でも、茄子の花の実物を見るということがどういうことか、その棘の痛みがどんなものであるか、それを知ることが教育なんじゃないかとふと思う。
 ふと思うという以上はないが、この地上に生きているというある実感と深まりの何かに関係しているように思う。