日経社説 ガス田、さらに協議深めよ(7/11)
どうもこの話全体がフェイクのように思える。
ガスは出るのか。出ないとしたら、何やってんだ、実際のところ。
日経社説 大株主が呼びかけた異例のGM再編(7/11)
なぜ今日の社説に。
毎日社説 歳出入改革 痛みも語る骨太の総裁選に
痛みを語るには痛みのわからない鈍感な輩がよろしかろうということで、ここは谷垣でひとつ。
読売社説 [更生保護制度]「抜本改革を進めて再犯を防げ」
難しい問題だなぁ。考えれば制度的な問題だろうが、実際はそんなのが機能する制度なんかないだろうし。
読売社説 [敵基地攻撃能力]「脅威を直視した論議が必要だ」
観測気球を上げてみますた。
朝日社説 公務員純減 出発点には立てたが
正論。後で寝返りすんじゃねーよ、と。
やずやの黒酢要らない
参考⇒熟成やずやの香醋欲しい!とは - はてな
参考⇒【B面】犬にかぶらせろ!乃風 - やずやといえば自己啓発セミナーなわけなんですが……
今ここ⇒『やずや』誇大広告の疑い 黒酢食品
誇大広告の疑いが持たれているのは、同社の人気商品「熟成やずやの香醋(こうず)」。同社の公表資料によると、中国産の黒酢を濃縮加工してカプセルに詰めたもので、昨年から今年にかけて販売された商品に「黒酢を当社独自の研究開発により約二十倍に濃縮しエキス化することに成功」などと表示していた。
しかし実際には、商品の主要成分であるアミノ酸の濃度は原材料の四−六倍程度とみられ、関係者は「消費者に誤解を与えかねない表示」と指摘している。
金日成も金正日もソ連人
議論の余地はあるのですが。
⇒金正日 - Wikipedia
出生がソ連であったため、幼いころは「ユーラ (フルネームはユーリ・イルセノビッチ・キム)」という名前を名乗ったが、朝鮮半島の解放後、おそらくソ連軍政期から朝鮮式の「キムジョンイル」を名乗ることとなった。1980年の第6次党大会にて金正日という表記が確認された。また、「キムジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では金正一の字があてられていた。ちなみに朝鮮人が父母の名から字を取ることは当時、稀であり、朝鮮の伝統的な命名ルール(行列字)ではあり得ないこととされている。
ウィッキはなかか乙なことも書いている。
2004年9月1日に高英姫夫人の死亡が報道された。高英姫は帰国した在日朝鮮人二世である。このため日本では、子供の金正哲が三代目後継者として浮上し労働党創建60周年にあわせ後継者に内定されたとの観測が出た。このように日本と韓国のメディアは北朝鮮が世襲後継を慣習化するだろうと前提して後継者が誰なのかについてしばしば話題にしているが、実際には金正日による後継でさえ経緯が不明であり、世襲は再度可能なのかどうか、不可能であればあえて挑戦するかどうかについておおいに疑われている(金日成#後継者参照)。
なんですよね。
ちなみに。
金日成の死
金日成は、1994年7月8日に死去した。その直前には、米朝枠組み合意があり、次に当時の韓国大統領金泳三との南北首脳会談の話が持ち上がっていたために、世界に大きな衝撃を与えた。北朝鮮政府の公式発表では、執務中に心臓発作を起こした事が死因とされている。長く心臓病を患い、82歳という高齢から一般的には病死発表は事実と考えられている。前日には党官僚の「形式主義」を声を荒げて非難しながら「やめていた」はずの煙草を吸ったのちに寝室に入ったとの情報がある。このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし、米朝枠組み合意後に金日成を失うことは北朝鮮にとって利益になることではなく、暗殺説は根拠が薄い。
また、韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し、北朝鮮は激しく抗議した。同日、金正日は金日成に会っていないことが記録上明らかである。
「暗殺説は根拠が薄い」の論理もまた薄いんですけどね。
はてなQより ジダンの頭突き。
⇒人力検索はてな - ジダンはどうして頭突きしたのですか?
仮説。
マテラッツィ「おまえ、頭頂部男性型禿が拡大しているだろ」
ジダン「そんなことはないよ、見ろ」
と言ったところで、ジダンが躓いてしまったというのが真相。
本屋が混んでいた、景気いいのかな
レモンコフィチュールが切れたので買いに隣町に出てついで大型書店を覗くと、けっこうな人。しかも、レジに列。ほぉ。みなさん読書家だねというか、景気いい感じ。若い女性がよく本を買っている感じもした。
ついでなんで気になる本を探したがなし。というか、同じ棚に人がいると、ちょっと気後れしてしまう。
本を買う人が多いというのは、日本の特異な文化か。本安いし。
再販制度もいろいろ言われるし理念としてはなんたらではあるが、実際のところ、日本くらい出版の敷居が低くて本の安い国もないのではないか。
出版界がなにかと時流に一番遅れているといわれるがおかげでもっているようなものだろう。
ベストセラーなんていうのも一種の互助会システムみたいなものだし。一将功成りて万骨枯るがうまく機能しているような変な世界。
そういえば長谷川慶太郎の本があった。なんか感慨深い。
おやWikiに載ってら⇒長谷川慶太郎 - Wikipedia
解説はそう悪くもない。
また、1980年代から1990年代初頭にかけてのバブル景気の際、長谷川はこの景気の虚構性を見抜けず、株価の上昇が続くと主張して積極的に株式投資や投機を勧める発言を続けた結果、彼を信じた多くの投資家が損失を被ったという指摘もなされている。
ま、そうかもね。それこそ自己責任だし。
長谷川の90年代の本は復刻したら爆笑でよろしいのではないか。
生きにくさ
いつだったか。案外20年くらい前だろうかTVだったが糸井重里が、二十歳までに悩んだことは二十歳過ぎたら忘れましたみたいに言っていた。今ふと思うと、そのころ彼は、クリスチャンのよくできた嫁さんを捨てて樋口と出来ていたころではなかったか。むむむ。
ご多分に漏れず私も生きにくいに悩んだ部類で、今思うと、物心付くまでが最悪で、小学生がかなりひどくて……という感じで、いつまでひどかったんだか。
と書きながら、というか書いてみたく思ったのは、生きにくさというのは忘れたな。いつごろからだろうか。やべー俺の人生はマジ終わりぃみたいなことになってからか。考えてみると、生きにくさというのは、ある程度、未来の期待というのがある。未来がないとわかるとそれほど生きにくいというのは薄れて、その日その日があるばかり。真引きさんとかも、傍から見ていたら死ぬまでその日その日があるばかりなのに随分元気に悲劇げなのはまだ若いからか。
群衆のなかにいると人ゴミとはよく言ったもので、人はゴミみたいだ、と、そりゃ誤字だな。ま、でも人はゴミみたいなものだが、自分にとって自分は大切だし、親族的には大切の度合いというか磁場みたいなものがある。そして友情とか恋愛とか。ま、ざっくり言えば、そうしたものに繋ぎ止められている反照でみなさん生きているようなもので、それは大切でしょう。
で、俺は何を言いたいのか。
特にないのだが、生きづらさというのが、どっからか、なんと私の人生って無意味なんだろというのとバランスしてしまった。まあ、人生の意味なんてものは先の繋ぎ止めと同じようなもので考えるだけ無駄だが、なんというのか、昔の生きづらさというのが今でもそのままにありながら、自分のくだらなさ無価値さにほっと息をつくというか、ま、夕食は吉野屋の豚丼でもいいかぁみたいな。お腹が一杯になって暗くなって寝る布団があればいいじゃんというか。まじ布団もない日のことを思うと布団に寝れるだけ楽。
ま、実際のところ、生きづらさというのはそういう頭で考えたりということではなく、けっこう無痛の苦痛みたいな身体現象ではないかとも思う。痛みとか苦しみというのは、身体とのコミュニケーションがうまくいってない信号ということは多い。
いつも同じことを言ってるだけだが、私というのは私の身体ということだし、私の身体というのは私の意識となんかズレてしまっているので、そいつとうまく折り合いを付けないといけない。なんつうか自分の身体という金魚鉢に餌やったり水替えたりとか。
そういう自己メンテナンスのメンドチさというのは生きづらさとは違うわけで、まあ、生きづらいときは自己メンテナンスでもしてるほうがいいのだろう。
そういえば数日前からAmazonのデータベースのシステムが変わっているのだが
なんかあったのか?
A9への移行と関係あんのか?
どっかにアナウンスとかあった?
どっかのブログで解析しているところはあるか?
もう10年以上も前だがNYに行ってダンスの
レッスンを受けようと考えていた。
資料を取り寄せて、フライトのスケジュールを組んで。
しかし、人生には思わぬことが起きるもので略。
なんの本だったか。見捨てられた身体とかいう本だったか、ダンサーの多くは身体の自然な感覚を持ってない、その補償でダンサーになってしまうという指摘があった。まあ、そうかもしれない。
ヨガについてだったか、ある指導者が、ヨガの上手な人は身体がとろい、と言っていた。それもそうかなと思った。
総じてスポーツ選手の身体を見ていると偽物臭い。(機能性にモルドされているかだろうが。)
身体を語るというか語られた身体が、ある枠組みのなかで価値観を持つとき、それはかなりの割合で、身体の偽装というか、身体の偽物化になるのだろう。
このことはたぶん性行為もそうだろう。
ネットとか本とかまその他の媒体でも、性的なテクニックは、というとき、そこで語られる身体は、実は、ただのマネキン。
性のテクニックは心の技術みたいにもいうが、その心というのもかなりうさんくさい。
身体というのは、内臓的な無意識とでもいうものだろうか。そうだとも言い切れないが。
と。
このことろ、竹田青嗣の「意味とエロス―欲望論の現象学」を時たま思い出す。書架にはないので文庫でまた買っておくか。この後の竹田はより現象学的になり、さらに最近ではより西洋哲学の本流というか源流に行ってしまっているのだが。
私にとってのこの本の示唆は、欲望が他者の欲望であるということだ。とか言うとジラール風だがそういう意味でなく、私の欲望とは私に所属していない内的な他者がささやくものだ、ということ。
「それがおまえの欲望なのだよ」と私の身体に告げている他者の存在だ。
ここに本源的な苦痛というのがある。
私が欲望において自己を実現するかのように感じられるとき、それはその他者との合一でしかない。
ドゥルーズの「 千のプラトー―資本主義と分裂症」の基本的なモチーフはこうした欲望と他者の身体の問題のようにも思えたのだが、私にはドゥルーズのレトリックはまどこしくてついて行けなかった。というか、そのプラトーにおいて欺瞞意識の自滅的な死の願望が込められているような不快感があった。
で。
私の欲望を私が所有しえない状態は、簡単な図式でいえば、その欲望が身体に由来し、欲望によって身体と意識の合一が快楽によって仕組まれているから、とも言えそうに思うし、そのあたりに、死の衝動というか、バタイユ=ヘーゲル的な身体=限界の乗り越えという形而上学的な運動があるのかもしれない。
ただ、率直に言って、そうした思考のスキーマが今の私にはただただ迂遠なものでしかない。
その後もなんとなく生きてきたからもしれないが、意識が事実上死んでいるような状態でも身体が生きていて、なんというか小さい欲望をツール化して生活を組織化しているとき、人はけっこう生きている。小さい欲望というのは、「このひじきの煮つけおいしいね」というようなものだ。人はそういうもので実際には生きている。
この小さな欲望と、それがおまえの欲望なのだと他者的に現れる欲望に、どのような差異があるのかよくわからないが、いずれにせよ、それが身体というものであり、いわゆるダンサーだのヨガだの身体技法だのとか、性の快感テクニックみたいなものではない。
ジラールとは違うとかいいながら、大きな欲望が本質的に他者を指向しているとも言えないのでもないと思うが、それがある原型としての他者というものへのエロスであるなら、やはりどこかしら死の匂いはする。男はたぶん子宮のなかで死にたいのだろう。
まあ、よくわからない。
わかっている人は多いのだから、私はわからないでいてもいいだろうくらいな感じだが。
シュタイナーのシュプラッハを少し学んでいた頃
講師が、声は身体から出ますと言って、そして雑談で、やり投げとかの練習もしましたと語った。
古代ギリシアの身体の作り上げるために、あのオリンピックの原型の競技があったというふうでもあった。
後。
アテネに意味なく1週間ほどうろついて国立博物館なども見たりしたのだが、古典ギリシアの身体(裸像)とローマ時代のそれとは筋肉の付き方が違う。背筋が特に違っているように思えた。ローマの背筋はなんというかこれは人殺しの身体だなと思った。
ローマは古典ギリシアの模倣なのだが、では古典ギリシアの裸像とはと、あらためて見直すと、これらはまさに肉付き=思想なので、ちょっと唖然としたことがある。そんなことは西洋絵画のトルソのデッサンとかで西洋人は普通に学ぶことかもしれないが。
そしてそれは同時に性の思想でもあるのだろう。
そういえば、ロドニー・イーの身体も随分変わったものだった。むき出しになるとセクシーとしか言えないし腹筋はあるのだが、お腹は柔らかいようだった。服を着ると、ちょっと猫背で眼鏡を掛けると、ヨガの達人には見えない変な中国人になっていた。