もう10年以上も前だがNYに行ってダンスの
レッスンを受けようと考えていた。
資料を取り寄せて、フライトのスケジュールを組んで。
しかし、人生には思わぬことが起きるもので略。
なんの本だったか。見捨てられた身体とかいう本だったか、ダンサーの多くは身体の自然な感覚を持ってない、その補償でダンサーになってしまうという指摘があった。まあ、そうかもしれない。
ヨガについてだったか、ある指導者が、ヨガの上手な人は身体がとろい、と言っていた。それもそうかなと思った。
総じてスポーツ選手の身体を見ていると偽物臭い。(機能性にモルドされているかだろうが。)
身体を語るというか語られた身体が、ある枠組みのなかで価値観を持つとき、それはかなりの割合で、身体の偽装というか、身体の偽物化になるのだろう。
このことはたぶん性行為もそうだろう。
ネットとか本とかまその他の媒体でも、性的なテクニックは、というとき、そこで語られる身体は、実は、ただのマネキン。
性のテクニックは心の技術みたいにもいうが、その心というのもかなりうさんくさい。
身体というのは、内臓的な無意識とでもいうものだろうか。そうだとも言い切れないが。
と。
このことろ、竹田青嗣の「意味とエロス―欲望論の現象学」を時たま思い出す。書架にはないので文庫でまた買っておくか。この後の竹田はより現象学的になり、さらに最近ではより西洋哲学の本流というか源流に行ってしまっているのだが。
私にとってのこの本の示唆は、欲望が他者の欲望であるということだ。とか言うとジラール風だがそういう意味でなく、私の欲望とは私に所属していない内的な他者がささやくものだ、ということ。
「それがおまえの欲望なのだよ」と私の身体に告げている他者の存在だ。
ここに本源的な苦痛というのがある。
私が欲望において自己を実現するかのように感じられるとき、それはその他者との合一でしかない。
ドゥルーズの「 千のプラトー―資本主義と分裂症」の基本的なモチーフはこうした欲望と他者の身体の問題のようにも思えたのだが、私にはドゥルーズのレトリックはまどこしくてついて行けなかった。というか、そのプラトーにおいて欺瞞意識の自滅的な死の願望が込められているような不快感があった。
で。
私の欲望を私が所有しえない状態は、簡単な図式でいえば、その欲望が身体に由来し、欲望によって身体と意識の合一が快楽によって仕組まれているから、とも言えそうに思うし、そのあたりに、死の衝動というか、バタイユ=ヘーゲル的な身体=限界の乗り越えという形而上学的な運動があるのかもしれない。
ただ、率直に言って、そうした思考のスキーマが今の私にはただただ迂遠なものでしかない。
その後もなんとなく生きてきたからもしれないが、意識が事実上死んでいるような状態でも身体が生きていて、なんというか小さい欲望をツール化して生活を組織化しているとき、人はけっこう生きている。小さい欲望というのは、「このひじきの煮つけおいしいね」というようなものだ。人はそういうもので実際には生きている。
この小さな欲望と、それがおまえの欲望なのだと他者的に現れる欲望に、どのような差異があるのかよくわからないが、いずれにせよ、それが身体というものであり、いわゆるダンサーだのヨガだの身体技法だのとか、性の快感テクニックみたいなものではない。
ジラールとは違うとかいいながら、大きな欲望が本質的に他者を指向しているとも言えないのでもないと思うが、それがある原型としての他者というものへのエロスであるなら、やはりどこかしら死の匂いはする。男はたぶん子宮のなかで死にたいのだろう。
まあ、よくわからない。
わかっている人は多いのだから、私はわからないでいてもいいだろうくらいな感じだが。