イチネタ

 ID論ですがね。
 ⇒広がる「進化論」批判 米教育界、指針見直しも
 国内だと似非教養がトンデモ説扱いするわけですがね。
 ⇒カンブリア爆発 - Wikipedia

今では、動物については、すべての動物門がカンブリア紀に出現した可能性があり、しかも現在の所、これらの先祖をさかのぼることが出来ていない。

 その意味を考えるというのは重要ではある。
 っていうか、日本の理系頭ってこういうのを考えないのを理系だと思っている。ってか、数式いじれると賢いとか思っていてイマジネーションがないわけで、欧米の理系というは極めて神学に近い、ってか、ゲーデルのほとんどの人生はライプニッツ研究に投入された。

イチホゲ

 ちょっとくどいけど
 ⇒民主、マニフェストに郵政改革案 公社は維持、郵貯縮小

民主党は、総選挙に向けたマニフェスト政権公約)の重点項目に郵便貯金の縮小を柱とした郵政改革案を盛り込む方針を決めた。日本郵政公社を維持したまま、現在1千万円の郵貯の預け入れ限度額を700万円に引き下げることを明記する。郵政改革は重点項目としない方針だったが、「論争を避けている」との批判が強まることを恐れ、方針を転換した。総選挙での与野党対決の構図に影響を与えそうだ。

 ったく。

今日の新聞各紙社説は…

 産経がどんなスタンスであれ、ワンレンコを取り上げたのはよい。
 朝日はいつもながら醜悪。

●日経社説 子育ての経済支援具体化を

 これに意見はあるがなんか書くのおっくうになる。
 子供を育てる費用というの概算は無意味ではない。しかし、両親に知価というべきものがあれば、これはかなり補える。親が賢くなれば子供が賢く生きられるようになる。その分の対価は無駄なカネを減らせる。というか、現在の子供への失費は親の知価の減分に対応しているように思う。
 ま、こんなことをいうと批判されるのだろうから、それ以上言わない。

●日経社説 各党は骨太なマニフェストを掲げよ

 うざい。

●産経社説 コワレンコ氏死去 強硬外交の「亡霊」払拭を

 社説に取り上げたのはよし。
 プーチンを支援しないから日本が失策しつつあるのだが、反露の産経に言うのも虚し。
 先日のロシア救助もわざとらにのろのろやりやがって。あそこで英国に先んじていたらロシアの日本観も劇的に変わったのに。

●産経社説 メディア選挙 真の改革者を見極めたい

 ぼよよ〜ん。

●毎日社説 政権選択 小選挙区制の利点を生かせ

第一、肝心の郵政民営化に対する国民の優先度は、決して高くない。少子高齢社会を乗り切るためにも、思うにまかせない財政再建を進展させるにも、既得権益の大胆な見直しが欠かせない。

 なぜこうぶれるのだろうか、毎日。
 そして財政再建、またか。
 小選挙区制の意義もちょっとぼけているし。

●読売社説  [警察白書]「高齢者対策がカギ握る交通安全」

高齢者は、歩行者の死者の66%、自転車利用中の死者の60%を占める。これも深刻な問題だ。

 自転車についていえば、単純に被害とはいえない。よろよろ歩道を自転車でいく老人の危ない(加害・被害両面)こと。

●読売社説 [安保理改革]「読み誤ったが終わりではない」

 大筋で見ると、小泉改革がこれを決めると思う。アフリカや中南米にあれだけつくしたという日本の心意気やよし。もうちょっとロシアに配慮すればもっとよかったのだが。

●朝日社説 なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える

 歴史を学ばぬ馬鹿。具体的にあのとき、日本がどのように終戦を模索し、それがどのように失敗したのかに触れてもいない。それが、例えば初めから望みの薄ことであれ、その模索の意義を問いかえさない朝日には悪意すら覚える。

コメント再録みたいな

 ID論とかなんだけど、これへの反論というのは最初に結論ありきに見えるのですよ。
 で、この問題は、1そもそもカテゴリーエラーかもしれない、2ディテールはどうよ。
 ということで、私は1のような神学めいた議論にはあまり関心なくて、2のディテールに関心を持つのですよ。
 そして、2のディテールが編み上げる新しい世界像をどう考えるかということなんです。
 もうちょっというと、カンブリア爆発というのは、従来のパラダイムだとなくてもどうでもいいことなんですよ。つまり、それがないことは理論の「タメの」モデルに合致している。
 なので、私はそれは概ねトートロジーなんだろうなと思うのです。
 というのは、私は理論とは峻別された実在というのを考えるのです。
 このあたりはトンデモに聞こえるかもしれないけど……たとえば、明日この世界に神が介在することに私はなんら疑問を抱かない。オメー馬鹿?と言うなら私は確率論の基礎を問いたい(統計の基礎である)。
 確率というのは過去の世界はそうであったということしか語ってないんです。つまり、時間というのは、どうも旧来の科学が捕らえたものではない。
 そして、旧来の科学とは、むしろ、時間の再現性を要求するのです。
 しかし、人間とか生命って再現しないんですよ。とま、なんか釣りのような話を書いてるみたいですが、率直なところ、私はオモスレーことに関心があって、既存の知で解決することにはそれほどは関心ないんです。
 というか、そういう未知への赤手空拳の関心の持ち方というのが本来の科学だと思うのですが。

カンブリア爆発…

 メモがてらに
 再録⇒カンブリア爆発 - Wikipedia

チャールズ・ダーウィンは、自己の進化論の中で、生物進化がゆっくりと進んできたはずであることを説いたが、そうであれば、先カンブリア時代からは様々な単純な多細胞動物の化石が出るべきであって、それが出ないことを謎だと述べている。

このことを説明するために、様々な考えが提示されてきた。たとえばその時代の地層が、何らかの理由で欠失しているとか、多細胞動物の祖先が化石になりにくい生活をしていたとか、あるいはごく小型で軟体性であったので化石にならなかった、などである。

しかし、その後の研究で先カンブリア時代の化石が次第に発見され、カンブリア紀の化石産地も新たに調査が行われた結果、謎はさらに深まってきた。

 ⇒Special Story:ゲノムから進化を探る研究-BRH

すなわち、遺伝子の爆発はカンブリア爆発に3億年ほど先に起きていたことになる。遺伝子はたしかに爆発的に増えていたが、それは動物の爆発的多様化とは関連していなかったのである。例えば、脳の形成に関与する遺伝子が、脳どころか神経系すらない原始的なカイメンにも存在する。この遺伝子はカイメンでどんな働きをしているのか分からないが、この事実は次のことを教えてくれる。生物多様性の分子機構を理解するためには、どんな遺伝子が作られたかということを追求するのではなく、すでに存在している遺伝子をどう使って多様な生物を生み出したかを研究すべきなのである。ハードではなく、ソフトの問題なのである。

 ⇒生命誌研究館:カンブリア爆発と遺伝子の多様性-BRH

最近、多細胞動物に最も近縁とされている単細胞原生生物の立襟鞭毛虫を培養し、いくつかの遺伝子の単離を試みました。驚いたことに、多細胞動物になって作られたと信じられていた、チロシンキナーゼ(PTK)のような細胞間情報伝達に関係する遺伝子の多様化は、動物と立襟鞭毛虫との分岐あたりあるいはそれ以前、すなわち単細胞の時代にすでに完了していたのです。われわれは、多細胞生物には多細胞独特の遺伝子があって、そうした遺伝子が多細胞らしさを形作っていると信じてきましたが、その考えはどうやら捨てなければならないようです。

われわれにはわからないことがある…不思議なことがある…

 というのをそのまま、わからない、不思議だと思えばいいのではないか。
 もちろん、我々は古代人ではないから、科学でわかることはわかるとしていい。
 でも、現代の科学でわからないことはわからない。
 それを神につなげる人がいるなら、それは、科学じゃないんだから、ほっとけ。
 それが市民社会に介在してくるなら、拒絶。市民社会は妥当な科学知識をベースとしている。念力殺人とかなしなし。
 むしろ、問題なのは、わかんないな、不思議だなと、いう心をそのまま保持することが難しくなっているのだろうか?ということ。
 むりしてわかろうとしないでいいのではないか。
 カンブリア爆発という、かなり事実があって、その理由はわからない。妥当な科学的な説明が模索中。それだけのことではないのだろうか。
 むしろ、Whyよりwhat、なにがまだ潜んでいるのだろうというか、隠されている事実のほうが面白い。そうした事実の堆積というか、知の積み上げが、次世代に妥当な科学観を自然に導くだろうと思う。
 そのころ自分は生きてない。しかし、あー人生とか世界とかオモスレーとは思うのではないか。それでいいのではないか。

テレパシーとか霊とか…

 そんなものあるわけないですよ。
 そんなの全然科学的ではありません、という、科学で我々の市民社会が合意している。
 合意形成がしやすいし妥当だ。
 残念ながら、それが個人の人生体験とかになると、話が複雑になる。
 ある経験のなかでは、テレパシーとか霊とかばしばしある。
 それはその人の経験なんで、その経験っていうのは他者なり、市民社会が否定できることではない。
 もちろん、そんな体験が市民社会の合意になるわけもないが、そういう経験自体がその人の人生の意義を形作って、その結果が何か市民社会に結果的な影響をもたらす…というのはある。
 私は他者の経験は否定しない。
 と同時に私は私の経験を否定しない。
 ある日、神が語りかけてくるなら、しかたない、そういうものかと思う。
 社会は私を精神分裂と判断するだろうが、しかたない、それが私に与えられた経験であり、人生だ。
 と、いうふうに我々は、その存在を開いていくものなのではないか。

つづき

 …と、いうふうに我々は、その存在を開いていくものなのではないか。
 なぜ?
 たぶん、恋愛とか人生にとって意義のあるものは、そういう奇妙な開示性と本質的な関係性を持っているのではないか。
 ぶっちゃけて言うと?
 ある人が自分を愛している、あるいはその人に愛が伝わる、という精神構造は、多分に、テレパシーとか霊と変わらないもんじゃないのか?
 ついでに。
 愛は信じるけど、神は信じないというのは、ある特異な精神構造というかエートスというか倫理かもしれない。
 誰だったか、どっかの司祭さんだったか、神を信じなくてもいいですよ、愛が信じられますか? 愛が信じられるならそれで十分ですよ、と。
 ついでに。
 日本人がとも限定されないが、神っていう概念は、無限の召使いなんで、ようするに、こちとらがひーこら勝手に使いたいそういう存在なわけで、それは、ちょっと神の側としても、い・や・か・も。