われわれにはわからないことがある…不思議なことがある…

 というのをそのまま、わからない、不思議だと思えばいいのではないか。
 もちろん、我々は古代人ではないから、科学でわかることはわかるとしていい。
 でも、現代の科学でわからないことはわからない。
 それを神につなげる人がいるなら、それは、科学じゃないんだから、ほっとけ。
 それが市民社会に介在してくるなら、拒絶。市民社会は妥当な科学知識をベースとしている。念力殺人とかなしなし。
 むしろ、問題なのは、わかんないな、不思議だなと、いう心をそのまま保持することが難しくなっているのだろうか?ということ。
 むりしてわかろうとしないでいいのではないか。
 カンブリア爆発という、かなり事実があって、その理由はわからない。妥当な科学的な説明が模索中。それだけのことではないのだろうか。
 むしろ、Whyよりwhat、なにがまだ潜んでいるのだろうというか、隠されている事実のほうが面白い。そうした事実の堆積というか、知の積み上げが、次世代に妥当な科学観を自然に導くだろうと思う。
 そのころ自分は生きてない。しかし、あー人生とか世界とかオモスレーとは思うのではないか。それでいいのではないか。