4.I. Right Teaching and Right Learning

A good teacher clarifies his own ideas and strengthens them by teaching them. Teacher and pupil are alike in the learning process.

 これはAcimのけっこう強烈な仕組みで、これによってれいの「マニュアル」ができている。頭ではわかっていても、とても難しい。もっと率直に言うと、私はなんとなく人に知識をよく教えるような人っぽいが、実際には、教師とかにとてもむかない。教える人ではないのだと自覚している。教師たるにはなにかが欠損しているのである。ただ、Acimのいう教師とは、教える教師というのは少し違い、学びを実践するという意味合いがある。つまるところ、Acimの体型というのは、一人の狂気の女性の幻想に過ぎない。そこに真理があるかどうかは、その真理を生きた人によって伝えられる。

The ego is a contradiction. Your self and God's self are in opposition. They are opposed in source, in direction and in outcome. They are fundamentally irreconcilable, because spirit cannot perceive and the ego cannot know.

 「霊は知覚せず、自我は知ることができない」ここがAcimの奇妙に思える教えでもある。逆に言えば、「自我がすることは知覚であり、霊がするのは知識の認識である」ということだろう。Acimは知識によって知覚を正そうとしている。
 これは率直に言って、狂気の道のようにも思えるが、私たちが依存している知覚に根源的な錯誤があるなら、知識はどこかで暗黙に想定されている。

Learning is ultimately perceived as frightening because it leads to the relinquishment, not the destruction, of the ego to the light of spirit.

 「学んでいる状態は恐怖として知覚される。なぜならそれは放棄に至らしめるからだ。それは破壊ではない。放棄されるのは自我であり、霊の光に向かう。」
 このあたりはなるほどとテキストから学ぶ。私はAcimは自我を壊すものかなと想定していた。

Teachers must be patient and repeat their lessons until they are learned.

 「教師は忍耐強く、レッスンを繰り返させる。それがきちんと学ばれるまで。」
 Acimの奇妙なロジックはそれが人生という限定で完結されないかに見える状態にある種の輪廻を想定しているため、多少、教義に混乱がある。が、輪廻の有無が問題ではなく、ただ、レッスンを学ぶかどうかだけ重要。

Your ego is never at stake because God did not create it. Your spirit is never at stake because He did.

 「自我に危機はない。神はそれを創造していない。あなたの霊にも危機はない。神が創造したからだ。」
 私が「私」だと思うもの、私の人生というのは、神の創造ではないと言ってよいのだろうと思う。だから、私はいずれ、遅かれ早かれ死ぬことになる。しかし、霊はそうではないとAcimは言う。私が自身を霊として認識できるかについては、私は率直なところわからない。ただ、今日も炎天下歩いて、自分が心だ後の永遠の時間を思った。

I will substitute for your ego if you wish, but never for your spirit.

 ここはヘレンへのパーソナルメッセージがベースにあるのだろうと思う。「私はあなたが望むなら自我の代替になることができるが、あなたの霊の代替にはならない」
 ヘレンの二重人格は、二重人格の罠を知っていた。そんなことがありうるのかとも思うが、ヘレンだからそれが可能だったのだろう。

I could not understand their importance to you if I had not once been tempted to believe in them myself.

 ここもヘレン向けの聖書の比喩になっている。
 非常に重要なメッセージを含みながら混乱した節になっている。