死の恐怖の微妙な変容

 私が死んでも、たぶん、この世界は存続するだろう。そして生きている私が今想像できる範囲でもあるだろう。
 私には子供があるのでたぶん数千年くらいは子孫があるんじゃないかと思う。
 それでも宇宙の瞬きに地球は滅びる。生命はそれ自体が夢であったかのように、宇宙の暗黒のなかに消えるだろう。そして、ほとんど無限に近い無が支配するだろう。
 諸存在は、おそらく、その原子核から崩壊して無に帰すだろう。
 無の後にまた時間と存在が始まるかもしれないし、あるいは多元的な宇宙はただ多元的に存在するのかもしれない。生命が物質となんら変わりが無いということは、物質はどこでも偏在的に生命とその知性を生み出すということでもあるのかもしれない。
 そういうことは、古代人が考えたように、現代の科学でも実はわからない。
 ただ、私は宇宙の瞬きに存在し、ほとんど無に近い。
 私は無と言ってもいい。
 そもそも私という意識も科学的に考えるなら、なんらかの意味の構成体であって、ただの偶然というか、環境因子に帰すだろう。つまり、それをdistinctiveに存在せしめる実体なるものは存在しないだろう。
 そのことが私は、子供の頃から恐怖だった。宇宙の無の暗闇をよく見つめて泣いた。
 しかし、その無こそは私の故郷でもあるだろうし、私の真実でもあるのだろう。
 この自我の人生の本質はおそらく仏陀が直覚したようにただ苦であるなら、無は涅槃と同義でもあるだろう。
 まあ、しかし、そう性急に結論を出すこともないというのが、実際のところまだ生きている自分の課題でもある。