2.IX. The Meaning of the Last Judgment

 この節はAcimのロジックからそれほど難しいわけではない。「最後の審判」をAcimが訂正し実質リライトしている。その「時」とは、すべての兄弟が救済される「時」だし、その「時」というのもただ、物質的な世界での表現でしかない。恐怖をもつ必要はないが、欧米的なキリスト教ではこうした訂正が特に強調されるのだろう。
 節を読みながら、改めて「創造」を思った。創造とは、私たちの肉体的な知覚世界からすれば、心的な存在のみが創造される。つまり、私たちは「愛」を作り出せるし、「憎悪」を作り出すこともできる。そしてそれらの作り出したものを、このフィジカルな世界に投影する。
 だから、心(マインド)の力は万能なのだということ。
 あと、ここまで読んでいていて最近思うのだが、ワプニックも説明しているが、聖霊とイエスは区別しなくてもよいということだが、イエスとは自我のない神の子であるというのがAcimの基本理解ではあるが、Acimそののがイエスの語りという点では、イエスは究極の教師としてとらえてもいいだろうし、これに対して、聖霊とは心(マインド)から委託された無意識への機能だとしてもよいだろう。そして、心の力は聖霊を通して安らぎとなるのだろう。そのあたり、なんとなくじんわりわかってくる。
 二章が終わる。
 一章と二章はロジックはストリクトながら、叙述や用語は多少錯綜しているなあという印象はある。